Manic Street Preachersに見るフェミニズムとジェンダー


ニッキー


 筆者はマニック・ストリート・プリーチャーズが好きだ。しかし、そう言うと意外に思われることも多い。フェミニズムに好意的な筆者が、男らしさあふれる彼らの作品を聴くイメージを持てないらしいのだ。
 確かに、ウェールズから出てきた彼らは、マッチョな側面もなくはない。ジェームス・ディーン・ブラッドフィールド、ニッキー・ワイアー、ショーン・ムーア、リッチー・エドワーズの4人(リッチーは途中で離脱してしまったが)が世界と対峙するという孤立的イメージも、ホモソーシャルな関係性を容易に現出させる。



 だが、彼らの作品を聴いていると、男性性や家父長制に対する批判的眼差しを感じる。たとえば、初期の代表曲である“Little Baby Nothing”。ポルノ女優だったトレイシー・ローズをゲストに迎えたこの曲は、女性のオブジェクティフィケーション(人を物として扱うこと)や搾取が題材だ。男性優位社会や家父長制の歪さをシニカルに歌っている。“Little Baby Nothing”が発表されたのは、1992年。いま以上に女性差別への理解がなかった当時において、4人組の男性バンドがこういう歌を作りあげた功績は無視できないだろう。
 ちなみにMVでは、ナチスが同性愛者を表す胸章として用いたピンク・トライアングルらしきオブジェも登場する。ラストでペンキをぶち撒けられる物体がそれだ。ナチスは、女性が政治や経済的立場で活躍することを認めなかった。“Little Baby Nothing”のテーマをふまえると、そうした背景の表象として、オブジェを用いたと考えられる。



 “Born A Girl”もおもしろい。1998年のアルバム、『This Is My Truth Tell Me Yours』に収録された曲だ。メランコリックなサウンドに乗せて、〈そう 俺は自分が女に生まれてたらとつくづく願う こんな男のできそこないじゃなく(Yes I wish I had been born a girl And not this mess of a man)〉と歌われる歌詞は、トランスセクシュアル(身体の性と心の性の一致を望む人)な視点を感じさせる。あるいは、ステレオタイプな〝男らしさ〟に対する言及としても解釈できるだろう。〈この世界に俺みたいな女が存在する余地はないんだ 俺の居場所なんかどこにもないんだ(There's no room in this world for a girl like me No place around there where I fit in)〉という一節に、男性優位な仕組みを許す世界への批判が見られるからだ。アイドルズが有害な男らしさ(toxic masculinity)を批判する遥か前に、彼らはそれを実行していた。
 “Born A Girl”の歌詞を書いたニッキー・ワイアーは、ライヴでワンピースを着たりと、両性具有的なイメージを長年打ちだしてきた。そんなニッキーの存在もあってか、ライターのキャサリン・スコットなど、彼らをお気に入りのバンドに挙げるフェミニストもいる。

 彼らはかつて“Forever Delayed(永遠に遅れつづける)”という曲を書いたが、とんでもない。これまで残してきた果実をひと噛みすれば、先見性100%の果汁が口の中を満たしてくれる。

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