愛と自由を巡る物語 〜 映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』〜


 登場人物の共依存性にスポットを当て、それを繊細かつソフィスティケートされた映像で描いていく。そうした岩井節とも言える手法がこれでもかと味わえる映画だな。これが、岩井俊二監督最新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観たときの感想だ。正直、手法そのものは“いつもの岩井俊二”であり、これまで岩井作品を追いかけてきた者にとっては、特別に驚くということはないと思う。

 とはいえ、その手法で描かれた世界には、目を引く要素がたくさんあった。まずは、七海(黒木華)と真白(Cocco)の関係。ふたりは、安室(綾野剛)が仕切るアルバイトをキッカケに知り合い、その後ふたりで呑むまでの仲となる。このときは、帰り道で七海が真白とはぐれてしまい、そのままお開きとなってしまう。
 ところが七海は、安室が紹介した住み込みのメイド仕事を受けたことで、真白と再会する。その仕事場は大きな屋敷で、七海の他にもうひとりメイドがいるのだが、それが真白だったのだ。こうして七海は、真白とひとつ屋根の下で暮らしはじめる。

 そこでの生活を七海は、とても満喫しているように見える。七海はメイド仕事に就くまえ、非常勤で教師をしていたのだが、声が小さいことを理由に生徒たちから揶揄われるなど、お世辞にもうまくいっていたとは言えない状況だった。学校を辞めるときも、花束のなかにマイクを入れられるなど、最後まで声が小さいことに対する当てつけを受けていた。
 一方で七海は鉄也(地曵豪)という恋人がおり、結婚もする。学校を辞めたのも、鉄也との結婚が一因なのは、劇中でもそれとなく描かれている。しかし、その結婚もうまくいかず、七海と鉄也は別れてしまう。七海は鉄也と暮らしていた部屋を追いだされ、荷物を抱えてさまようはめになる。

 その最中、七海は安室と電話をするのだが、そこでの七海の言葉がいまでも心に残っている。
 七海は安室に、ここがどこかわからないという叫びをぶちまけるのだが、それはさまよっているうちに居場所がわからなくなったという意味だけでなく、何をやっても理想通りにいかない七海の人生を表しているようにも聞こえたからだ。七海は、周囲の都合に振りまわされることが多い、世渡り下手な人なのではないか。このシーンを見て筆者はそう感じた。

 そんな七海が、奔放に生きる真白という女性に惹かれたのは必然だったのかもしれない。だが、それが“友情”なのか、はたまた“愛”なのかは、明確に描かれていない。それでも、ふたりの関係性を示唆する表現はある。それは、ウエディングドレスを着た七海と真白が、一緒にベッドで眠るシーン。
 ウエディングドレスを着た七海と真白は、そのまま車を走らせ、酒池肉林を堪能する。そのあとふたりは共に眠るのだが、ここでふたりはハッキリと、「愛してる」ということを互いに確認しあっている。ただ、ふたりとも泥酔状態にあり、この点が「明確に描かれていない」と書いた理由でもある。
 とはいえ、眠りから覚めた七海が、隣で永遠の眠りについていた真白を見たときの泣き崩れる姿は、この世で一番大事なものを失ったかのような悲哀を漂わせていた。この感情をなんと呼ぶべきか、筆者にはわからない。ただひとつ言えるのは、七海と真白の間にはとても深い繋がりがあったということだけだ。それを筆者は、便宜的に“愛”と呼んでいるにすぎない。

 『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、七海がメイドの仕事に就く前の前半と、メイドの仕事に就き真白と楽しい一時をすごす後半という二部構成として観ることもできる。前半は、結婚式の出席者が見せるつまらなそうな表情や、その結婚式に呼ぶ親族が少なすぎるという体裁を気にするかのような鉄也の言葉に困る七海など、“仕来り”とされているものに対する違和感を表現した場面が多い。しかし、七海と真白を中心に描かれる後半は、贅沢を尽くし同性愛的な要素も見せるなど、前半の現実的な世界観とは打って変わり、どこか幻想的だ。これはさながら、いくつものしがらみでがんじがらめの現実に対する、ふたりなりの“反抗”とも言える。
 ちなみに筆者は、七海と真白の姿に“自由であることの面白さ”を見いだした。一見現実離れした真白の生き方は、その実、現実をしっかり見据えた末のものだ。それは、ベッドで七海に語りかけるシーンを見ればわかるはずだ。真白はハッキリと、この世界には希望があり、優しい人であふれていると言う。

 そんな真白には、『スパニッシュ・アパートメント』に登場するイザベルの姿を重ねてしまう。レズビアンのイザベル(セシル・ドゥ・フランス)は、大学で知り合ったグザヴィエ(ロマン・デュリス)と友情を培い、そのグザヴィエに多くの影響をあたえる。おかげでグザヴィエは、人生や恋愛など多くの面で学びを得て、多様性を獲得する。自分自身で選択した人生を歩もうというメッセージが込められたこの映画は、それこそ“自由であることの面白さ”を教えてくれる。
 “自由であることの面白さ”といえば、こんなシーンがある。それは、引っ越しをした七海に、安室が家具をプレゼントするシーン。このシーンで安室は、たくさんある家具のなかから好きなものを持っていっていいと告げる。そこで七海はいくつか家具を選び、安室と共に部屋へ運び込む。その結果、部屋には、ひとつのテーブルとふたつの椅子が並べられた。ひとつは七海が、もうひとつは真白が座るためのものであるかのように。
 この部屋を見て筆者は、七海が真白との一時を糧に成長したのだと感じた。テーブルと椅子の周りをゆっくり歩いたあと、窓を開けてベランダに出た七海の表情は、とても晴れやかに見えた。この先、七海がどんな人生を送ろうとも、少なくとも真白と出逢う前までの人生よりはマシなものではないか。そう思わせるには十分の表情だった。

 その表情を見たとき、ふと頭によぎったのが、『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』のエイプリル(ケイト・ウィンスレット)だ。この映画は、社会が要請する女性像になれない女性の苦難を残酷に描いている。フランク(レオナルド・ディカプリオ)と幸せな家庭を築いているように見えるエイプリルだが、実はフランクとの生活に生き甲斐を見いだせないでいた。価値観の違いからフランクとの仲は険悪になり、エイプリルが妊娠したあとも、たびたび夫婦喧嘩をしてしまう。そしてついにエイプリルは、喧嘩の際にフランクから「堕ろしてほしかった」という言葉を浴びせられる。その後フランクはすぐに謝るのだが、時すでに遅し。後日エイプリルは自ら堕胎しようと試みるも、うまくいかずに出血多量でこの世を去ってしまう。
 もし、エイプリルのそばに真白のような人がいたら、エイプリルの人生は違ったものになったかもしれない。そう思わずにはいられなかった。自由に生きたかったエイプリルは、世間体というまなざしによって苦しめられ、最後は命を失った。しかし七海は、真白という存在によって、前を向くことができた。七海は心の底から繋がれる人と巡り逢えたが、エイプリルは出逢えなかった。それだけのことかもしれないが、その“出逢い”が人生を大きく変えてしまうのも事実。だからこそ“出逢い”は、大切なのだ。

 七海と真白を見て、“女同士がキスしてる!”とか、“見つめあって「愛してる」とか言ってるぜ!”とか、反射的な拒否反応をしてしまう人は少なくないと思う。だが、深い繋がりを得られる相手は、何も“家族”や“異性”だけではないのだ。言うまでもないことだが、この世にはさまざまな人たちがいる。当然、深い繋がりを感じられる相手もさまざまだ。言葉にするとありきたりかもしれないが、そんなことにも気づかない人(あるいは気づいていても嫌悪感を示す人)は、残念ながら少なくない。こうした現実に対する批評性を、『リップヴァンウィンクルの花嫁』は柔らかい痛烈さという形で孕んでいる。

 この先、七海がどんな世界で生きるのかは誰も知らない。ただ、確実に言えることはある。七海が生きる世界は、多様性を受けとめられる人であふれた、包容力のある世界でなければいけないということ。そしてそれは、私たちが住む現実も同じだ。



『リップヴァンウィンクルの花嫁』

2016年公開 日本

原作・脚本・監督 岩井俊二

出演者 : 黒木華 綾野剛 Cocco

音楽 : 桑原まこ

撮影 : 神戸千木


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