“始まりと終わり” から逸脱した時間芸術 〜 Maison book girl『image』〜



 最初に言っておくと、筆者はMaison book girl(メゾン・ブック・ガール)の熱心なファンとは言えない。彼女たちの作品群は聴いていたが、それは日本の音楽を把握するための勉強としてだ。4人組のグループで、最近はニューエイジ・ポップ・ユニットと名乗るようになった、という基本的な情報は常に追っていても、“好き” とか “面白い” と感じることはなかった。


 そのうえで言うと、彼女たちのメジャー1stアルバム『image』は面白い。特に耳を引いたのは歌詞だ。たとえば本作は、「sin morning」や「veranda」で登場する〈赤〉など、特定の単語を多用することで、曲同士で同じ世界観を共有させているように感じる。ただ、それが明確に示されることはない。しかし、だからこそ想像は膨らみつづけ、その想像を楽しむために何度も聴いてしまう。こうした聴体験は、『街』や『428』といったサウンドノベルをプレイしたときの感覚と似ている。これらのゲームは、複数の登場人物をプレイすることで、ひとつの世界観や物語を浮かびあがらせるが、こうした面白さが本作にも見いだせるのだ。“この歌の○○という一節は別の歌の物語とリンクしてるのか?” といった具合に。とはいえ、このような筆者の感覚は、特に目新しいものではないらしい。曲同士が同じ世界観を共有という点は既に指摘されており、「ゲームっぽい」と言われることもあるそうだ(※1)。


 また、そんな楽しみ方をするうちに、本作をランダムで再生するようになってしまった。オープニングは「ending」で、ラストが「opening」という曲順から察するに、本作は従来の時間軸にとらわれていない作品で、本来の曲順とは違う流れで聴いても成立するのでは?と考えたからだ。結論から言うと、筆者の中では成立している。本来の曲順とは別のさまざまな点が現れ、聴き進めるごとに線となっていく。そして、線の完成を見届けると、またランダムで再生し、別の点が生まれる。その繰りかえしだ。もちろん、本来の曲順が “終わりから始まる” 的な区切りを意味し、それをメジャー1stアルバムという本作の記念碑的性質に重ねたとも考えられる。しかし、それもあくまで “ひとつの物語” でしかなく、絶対的なものではないと思う。


 筆者は本作を、時間芸術につきまとう “始まりと終わり” から逃れた作品として聴いている。まるで、サム・エスメイル監督の映画『COMET -コメット-』みたいに、過去、現在、未来、果てはパラレル・ワールドまでが入り乱れ、聴き手に “終わり” を意識させない、そんな作品。この楽しみ方が正しいかは不明だし、作り手側からすれば呆れるようことを書いているのかもしれない。それでも、本作を聴いて生じる終わらないイメージに夢中ということだけは、ハッキリしている。



※1 : RO69の記事『ニューエイジ・ポップ・ユニット「Maison book girl」、アルバム『image』を語り尽くす!』(2017年4月5日)を参照。http://ro69.jp/feat/maisonbookgirl_201704/page:1

サポートよろしくお願いいたします。