平熱の裏に隠された高揚感とメメント・モリ 〜 D.A.N.『D.A.N.』〜



 〈ナイトクルージング〉(「Native Dancer」)と歌われるせいか、日本の3人組バンドD.A.N.のファースト・アルバム『D.A.N.』を聴いて想起したのは、フィッシュマンズの名盤『空中キャンプ』だった。

 1996年に発表された『空中キャンプ』は、ここではないどこかへ連れていってくれる最高のアルバムだ。レゲエやファンクの残像が舞うなか、現実逃避としてのポップ・ミュージックを体現している。だが、肉体という縛りから精神を解放するようなトリッピー・サウンドに乗せて紡がれる言葉は、お世辞にも劇的ではない。「BABY BLUE」に登場する、〈今日が終わっても 明日がきて 長くはかなく 日々は続くさ 意味なんかない〉という一節を聴いてもわかるように、変わらない日常を諦念まじりに紡ぐのが『空中キャンプ』である。こうした現実と非現実の共生は、『D.A.N.』にも見いだせるものだ。

 とはいえ、『D.A.N.』がいわゆる“90年代”の要素を前面に出した作品かと言えば、それは違う。このアルバムは、幅広い層に届くであろうポップスとしての強度を獲得しながらも、テクノ、ハウス、ベース・ミュージックといった音楽の方法論を取りいれたものとなっている。たとえば「Native Dancer」のリズムを聴いて、ダブステップを連想した者は少なくないはずだ。

 おそらく、ほとんどのCDショップ店員にとって『D.A.N.』は、日本のインディー・ミュージック・コーナーに陳列する作品なのだろう。しかし、そこへ一緒に並べられる他の作品群と比べると、『D.A.N.』はベースの音が一際デカイ。それゆえ筆者は、“ベース・ミュージックの要素が強いポップス”というより、“ポップスの要素もあるベース・ミュージック”として聴いている。もう少し具体的に言うと、ジェイムス・ブレイクやジェシー・ランザを聴いたときと同じ興奮を『D.A.N.』はもたらしてくれるのだ。

 また、ある特定の時代の要素で縛られていない『D.A.N.』の音楽性は、2000年代以降のポップ・ミュージックの文脈にあると思う。2000年代の音楽シーンは、アニマル・コレクティヴやザ・ストロークス、さらにはアークティック・モンキーズやジ・エックス・エックスなど、数多くの要素に支えられたサウンドを鳴らす者たちが最前線に現れた10年だったが、こうした文脈が生みだした最良の果実のひとつこそ、D.A.N.というバンドなのだ。これらのバンドに共通するのは、面白いと感じた音は躊躇なく取りいれる、一種の怖いもの知らずなところ。いまでこそ、多くの要素を取りいれた折衷的な音楽は当たりまえになり、だからこそDMA'sといったストレートなロックを鳴らすバンドが新鮮に響くのかもしれないが、筆者は己の好奇心に忠実なD.A.N.の姿勢に惹かれてしまう。それに、折衷的な音楽があふれているから、あえて単一のタグで括れる音楽を鳴らす(そしてそれを祭りあげる評論家やライターたち)という光景はただの消極的反動に見えてしまい、ハッキリ言えばつまらない。この消極的反動が、日本でも見られるようになったと感じていた筆者からすると、『D.A.N.』のサウンドはなおさら嬉しいものだった。

 歌詞が秀逸なのも『D.A.N.』の素晴らしいところだ。抽象的で掴みどころがない言葉で紡がれるのは、肉体的とも幻想的とも言いきれない、“生と死の間”を漂う不思議な感覚である。もっと言えば、“どうせ死ぬのだから、いまは踊ろう”という意味でのメメント・モリを見いだしてしまう。ゆえに『D.A.N.』を聴いていると、諦念を抱きながらも前に進もうというポジティヴィティーを感じる。平熱なグルーヴが印象的な『D.A.N.』だが、その裏には確かな高揚感がある。

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