笑いという抵抗 ネオレアリズモを蘇らせた理由 〜ドラマ『マスター・オブ・ゼロ』シーズン2 〜



 『マスター・オブ・ゼロ』シーズン1は、ネットフリックスのオリジナル作品として2015年11月に配信され、人気を集めた。役者を生業とするインド系アメリカ人デフが主人公のコメディーである本作は、ニューヨークに住むマイノリティーの日常を小気味よい会話劇という形で描いている。一方で、差別などの社会問題に切り込んでいくのも魅力のひとつだ。たとえば、シーズン1第4話の「インド人・オン・TV」では、役者仲間に〈差別野郎が死んで俺たちの時代だ〉とハイタッチを求められるが、〈人が死んだんだ。ハイタッチはしない〉と返すやりとりがある。このやりとりは、製作総指揮を務めるアジズ・アンサリの信念が見られるシーンだ。
 そのアンサリはデフも演じている。アンサリもデフと同じくインド系アメリカ人で、そんなアンサリの実体験が本作には反映されている。ゆえに本作の物語は創作でありながら、生々しい匂いを放つ。もちろんアンサリは売れっ子のコメディアンだから、随所で笑いはある。しかし、筆者が本作に惹かれたのは、その笑いからこぼれ落ちる感情だ。そこには笑いだけでなく、マイノリティーとして生きていくうえでの哀しさであったり、やるせなさが滲んでいる。それでも笑いを選ぶところに、アンサリの矜持を感じずにはいられない。


 そんな『マスター・オブ・ゼロ』のシーズン2が、ネットフリックスで配信された。結論から言うと、前シーズン以上にさまざまなチャレンジを試み、しかも成功している。まず目を引いたのは、第1話「誕生日泥棒」だ。この回では、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画『自転車泥棒』(1948)にオマージュを捧げている。全編モノクロで、『自転車泥棒』の名シーンをネタにした場面も登場する。
 こうしたオマージュはアンサリの嗜好も関係しているが、それと同じくらいデ・シーカの背景も深く関係していると思う。1901年にイタリアで生まれたデ・シーカは、ネオレアリズモの象徴として知られている。ネオレアリズモは、1940〜50年代のイタリアで勃興したムーヴメントで、デ・シーカの他にはロベルト・ロッセリーニなども有名だ。このムーヴメントの特徴はズバリ、日常の空気をとらえるところにある。セリフは平易な言葉が選ばれ、日常こそがもっとも重要なドラマであるという考えを貫いていた。それを追究するためにデ・シーカは、プロの役者ではなく素人に演じさせることもあった。このような現実主義的アプローチは、当時のイタリアで広まっていたファシズムに対する批判的視座が関係しているのは有名な話だ。ゆえにネオレアリズモと呼ばれる作品は、社会問題の要素を孕むことも少なくなかった。たとえば、ロッセリーニの『無防備都市』(1945)はナチスに抵抗するレジスタンスを題材にしているし、『自転車泥棒』も貧困がはびこる戦後のイタリアをまざまざと示していた。
 こうしたネオレアリズモと本作が共振するのは、必然だといえる。本作のセリフも平易な言葉が多く、演出も大げさではない。それこそ日常の会話みたいに、淡々と話が進むなんてあたりまえだ。おまけに社会問題を取りあげるところも共通する。いわば「誕生日泥棒」は、本作のルーツを示す回でもあるのだ。



 また、第6話「ニューヨーク、アイラブユー」では、興味深い演出も披露している。この回はニューヨークの人たちにスポットを当てており、デフの登場シーンは少ない。その代わり、聴覚障害者の女性がメインのくだりでは約9分ほど無音にするなど、秀逸な仕掛けがある。これは視聴者に聴覚障害者の生活を擬似的に体験させるためで、それだけでも十分に挑戦的な手法なのは言うまでもない。だが素晴らしいのは、この回のテーマである“ニューヨークの多様性”を表すことにつながっているからだ。ただ仕掛けるのみならず、そこには視聴者へ向けたメッセージが込められている。この回は、ニューヨークは住む人たちが互いに影響しあう共生的な街であり、その特性が多様性というニューヨークの魅力を生みだしていることを教えてくれる。ちなみに、いくつものショートストーリーが交わっていくという手法は、2009年の同名映画から引用したものだ。こちらは“愛”をテーマに作られ、岩井俊二やナタリー・ポートマンが参加したことも話題を呼んだ。ここでもオマージュが炸裂している。


 シーズン2は、宗教と相互理解がテーマの第3話「ピッグ・ワイルド」、性的指向と向き合うことの難しさを描いた第8話「サンクスギビング」など、これまで扱ってきたテーマを深化させた回もあるが、それ以上により多くの人たちへ届けるための普遍性に挑戦した回が目立つ。この点は、ニューヨークに住むマイノリティーの日常というテーマが色濃かったシーズン1とは大きく異なる。これはおそらく、シーズン1の大成功を受け、日本も含めた世界中の人たちが観ることを意識したからだろう。
 事実、シーズン2で描かれることのほとんどは、人間関係を築くうえでは誰もがぶつかるであろう壁が根底にある。それは“対話”と“理解”だ。さまざまなテーマが行き交うシーズン2だが、そのテーマを描くために劇中で用いられるのは“対話”と“理解”がほとんど。たとえばデフとフランチェスカの恋にしても、互いに傷つくこともありながら、愚直なまでに“対話”と“理解”で関係を深めたり、齟齬を埋めようとする。このあたりはシーズン1にもあるにはあったが、シーズン2では今まで以上に強調されている。これはもしかすると、排他的価値観が世界中に蔓延する現況をふまえたのかもしれない。
 そう考えると、「ニューヨーク、アイラブユー」に登場する架空の映画『デス・キャッスル』は、ニューヨークにあるトランプ・タワーへ向けた暗喩ともとれる。この映画のキャッチコピーは〈誰もが死ぬほど脱出したい城!〉というもので、トランプ・タワーは現アメリカ大統領ドナルド・トランプの所有物。もちろん城と塔では異なるが、先に書いたネオレアリズモへの敬意や、さらにネオレアリズモが生まれた背景を考えると、あながち的外れとは言えない。ひとつのシーズンでこのようなメッセージを組み合わせるとは...。アジズ・アンサリ、彼の笑いはただ笑わせるだけじゃない。

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