映画『存在のない子供たち』



 レバノン出身のナディーン・ラバキーは、中東を代表する映画監督の1人だ。デビュー作『キャラメル』がカンヌ国際映画祭の監督週間で上映され、さらに同映画祭の“ある視点部門”の審査員長を務めた経験もある。

 そんなナディーンの最新作が『存在のない子供たち』だ。本作の主人公は、12歳の少年ゼイン(ゼイン・アル・ラフィーア)。だが、この年齢には“たぶん”という留保がつく。貧しい両親は出生届を提出しておらず、歳がはっきりしないからだ。ゆえに誕生日もわからず、法的には存在しない子供である。
 ゼインは中東の貧民窟で暮らしている。一日中両親に劣悪な労働を課せられ、学校へ通うこともできない。それでも、11歳の妹を心の支えに、何とか生きてきた。ところがある日、その妹が強制結婚させられてしまう。ゼインはそれを食い止めようとするが、力及ばず妹は連れていかれる。このことに怒りを隠さないゼインは、家を飛びだす。生きていくため仕事を探すものの、IDがないため職にはつけない。それでも、エチオピア移民の女性と知りあい、彼女の子供を世話しながらなんとか生活していた。しかしその後、ゼインは衝撃の事実を知る。そうしたさまざまな要因が積みかさなり、ついには両親を相手に、裁判を起こすに至る。「何の罪で?」と裁判長に訊かれたゼインは、率直にこう答えた。「僕を産んだこと」。

 本作の制作に入る前、ナディーンは約3年ほどリサーチしたという。貧困家庭やシェルターに足を運び、そこで得た経験がフィクションに昇華されている。そうした現実の匂いを可能な限り残すためか、キャストのほとんどは役柄の境遇に近い素人だそうだ。ゼイン・アル・ラフィーアにしても、レバノンに逃れてきたシリアの難民である。
 つまり本作は、演技でない情感に演出を施すという、ネオレアリズモ的な姿勢で撮られている。たとえば、ネオレアリズモを代表する映画『自転車泥棒』で、監督のヴィットリオ・デ・シーカが街の子供をキャスティングしたやり方などは、本作の手法と重なる。もっと言えば、妹を連れ去る者たちを追うゼインの場面には、同じくネオレアリズモの代表的映画『無防備都市』の名シーンを見いだすことだってできる。その名シーンとはもちろん、護送車に乗せられたフランチェスコを追うピーナの最期だ。このように本作は、ドキュメンタリー的なリアリティーの鮮度を確保しつつ、フィクション特有のドラマティックさも描くことで、私たちに強いメッセージを届けてくれる。一方的に何かを断罪できるほど単純でない現実をふまえながら、ドラマ性も獲得できるナディーンのバランス感覚は秀逸だ。

 このバランス感覚は、裁判で証言するゼインの母親のシーンにも表れている。法廷に立ったゼインの母親は、自らの苦境を告白する。どのような暮らしをしているか考えたことがあるかと、泣き叫びながら。その叫びによって、ゼインの両親も社会に見捨てられた被害者なのだと、観客は理解する。
 わかりやすい勧善懲悪の構図を丁寧に避ける本作は、特定の誰かに責任を負わせるのではなく、ゼインのような者が生まれてしまう社会の構造に刃を向けている。なぜ貧困や虐待は連鎖してしまうのか? なぜこのことに社会は無理解で、無視する者までいるのか? こうした意図に気づくと、ゼインが本当に訴えたかった相手も見えてくる。両親のみならず、その背後にある不平等で歪な社会を告発しているのだ。選択肢のない弱者を無慈悲に切り裂き、偽善100%保証付きの笑みを浮かべる者で溢れる、そんな社会。ゼインが抱える怒りや哀しみの矛先は、私たちである。



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