映画『デッドプール2』



 2016年に公開された『デッドプール』は、X-MEN映画シリーズ初のR指定作品という偉業?を成し遂げた。“第4の壁”を軽々と越えて繰りだされる辛辣なブラック・ジョークが特徴であるこの作品は、理想と希望を掲げるX-MENシリーズの中でも異色作だが、全世界で興行収益7億8300万ドル(約867億円)を記録する大ヒットとなった。ウェイド・ウィルソン/デッドプールを演じたライアン・レイノルズも、体を張って『グリーン・ランタン』を揶揄した甲斐があったというものだ。

 そんな『デッドプール』の続編『デッドプール2』が公開された。前作から2年後を舞台にした本作でウェイドは、麻薬カルテルやマフィアを倒すヒーローまがいの活動をしている。前作でありのままのウェイドを受け入れたヴァネッサ(モリーナ・バッカリン)との生活も悪くなさそうだ。
 さらに本作でウェイドは、とある事件がキッカケでX-MENに加入する。そこでの任務でミュータントの孤児ラッセル(ジュリアン・デニソン)の暴走を止めることになるのだが、案の定X-MENのルールを守れず、ラッセルと共にアイスボックスというミュータントを勾留する施設に入れられる。ウェイドとラッセルは着実に交流を深めていくが、そこへ未来からやってきたサイボーグのケーブルが登場し、アイスボックスで暴れまわる。ケーブルの目的は、ラッセルをこの世から消すこと。ウェイドがケーブルを食いとめる間に、ラッセルはアイスボックスから逃れ、自身を虐待した孤児院の院長に復讐しようと動きだす。ウェイドはその復讐を止めるため、親友のウィーゼル(T・J・ミラー)と協力してX-フォースを結成するのだった。

 端的に言うと、本作は深化作だ。排外主義的な登場人物がイエローキャブでひき殺されるなどの(イエローキャブの運転手には移民が多い)ブラックな笑いは前作以上にレッドゾーンへ突入し、『アトミック・ブロンド』のデヴィッド・リーチを監督に迎えたことでアクションも爽快感が増している。特にアクションの魅力が増したのは、『デッドプール2』に手堅い娯楽性をもたらしたという意味で重要なポイントだ。リーチはスタントマンとして数多くのアクション映画に関わったことで知られる監督だが、そうした背景がある男に監督を託したのは大正解だった。そのことは、ミュータントを輸送するトラックからラッセルを救うため、ウェイドが奮闘するシークエンスを観ればわかるだろう。ウェイドとケーブル(ジョシュ・ブローリン)の激しい戦いや、運が能力だと自称するドミノ(ザジー・ビーツ)によるカーチェイスなど、スタイリッシュなアクションの宝庫だからだ。

 ジョークのほうも絶好調だ。『LOGAN/ローガン』でウルヴァリンが串刺しになる姿を模したフィギュアから始まり、『007』をパロったオープニング、脚本への愚痴、ライアン・レイノルズの射殺など、まるで速射砲の如く強烈な笑いを連発する。一方で、アーハ“Take On Me”をバックにしたウェイドとヴァネッサの感動的なシーンでは、その“Take On Me”のMVを引用したりと、小ネタも散りばめられている。このあたりもリーチは抜かりない。

 感動といえば、本作の物語そのものが実は感動的だったりする。言うなれば本作には、“強い者同士が戦うなかで踏みにじられる弱い者”への温かい眼差しがある。たとえば、ルールに反してまで、孤児院前で暴れるラッセルをウェイドが助けようとしたのは、ラッセルが孤児院で虐待を受けていると知ったからだ。このシーンに登場する人たちは、孤児院側はもちろんのこと、暴力を振るうことを良しとしないX-MENも、暴走という表層だけを見てラッセルと対峙するなど誠実さを欠いていた。そうしたなかでも、ウェイドだけはラッセルに歩み寄り、虐待を受けているという事実を聞きだすことができた。そしてウェイドは孤児院の職員たちを殺そうとし、アイスボックスに送られてしまうのだ。しかし、そのおかげでラッセルはウェイドに心を開くようになる。

 ウェイドがラッセルに同情的なのは、驚異的な治癒能力を持つデッドプールが誕生するまでの背景も深く関係している。そもそも、ウェイドは治癒能力を求めてはいなかった。末期がんの治療と引きかえに人体実験の被験者になるが、その際にミュータント遺伝子を活性化させる血清を投与され、治癒能力を得たのだ。その代償として、ウェイドの体は全身火傷で爛れたような姿になってしまった。このことに恨みを持っていたから、前作はウェイドをミュータントにしたフランシス(エド・スクライン)への復讐劇だったのだ。こういった歩みを経てきたウェイドが、孤児院での虐待によって憎しみを植えつけられてしまったラッセルに寄り添うのは、自然なことだ。

 このようなウェイドが主人公だからこそ『デッドプール2』は、X-MEN映画シリーズへの強烈なカウンターとも言えるX-MENシリーズ作品になり、異端の存在感を得ることができた。
 その存在感を確固たるものにするのが、ウェイドが自らミュータント能力を捨て去る終盤の展開だ。最終的にラッセルの復讐は未遂に終わるが、それを実現させたのはヒーローでも超人的な能力でもない。ラッセルの復讐を寸前で阻止するのは、治癒能力を封印した“人間のウェイド”なのだ。思いだしてほしい。孤児院前で暴れるラッセルを止めたのも、“X-MENのルールを破ってまで寄り添うウェイド”だった。結局のところ本作は、目の前の人を救うためなら、清廉潔白なヒーロー像に中指を突きたて、超人的な能力も捨てる“ひとりの人間の物語”だ。そこに浮かびあがるのは、目の前の困った人を見捨てないことが大切という、とてもシンプルな想いである。そして見捨てないからこそ、周りの人たちを動かし、それは大きなうねりになるということも教えてくれる。重大なネタバレになるので詳細は避けるが、現にウェイドは敵対していたケーブルの心を動かし、自らの運命を変える。

 ウェイドは完璧な存在じゃない。しかし、完璧でない者だからこそ理解でき、救える心もあるのだ。



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