映画『モダンライフ・イズ・ラビッシュ 〜ロンドンの泣き虫ギタリスト〜』



 『モダンライフ・イズ・ラビッシュ』は、レコード店で出逢ったリアム(ジョシュ・ホワイトハウス)とナタリー(フレイア・メーバー)という男女の恋模様を描いた映画。音楽ファンならすぐにピンときたと思うが、タイトルはブラーのセカンド・アルバムから引用したものだ。劇中ではレディオヘッドやホワイト・ライズなど多くのポップ・ソングが流れ、音楽を軸に据えた映画が好きな者の琴線に触れる内容だろう。本来ならば。

 筆者の琴線は、喜びではなく、怒り混じりの哀しさで震えてしまった。特に目も当てられないのが、リアム側にとことん甘い物語であること。アーティストとして成功したいリアムとの生活を支えるため、ナタリーは広告会社で働いている。だが、夢を追うばかりのリアムに、ナタリーが嫌気を差すようになったことで、2人の間にすれ違いが生じる。最終的には別れてしまうが、とある音楽が奇跡的に2人を結びつけ、再び距離が縮まっていく。

 この物語における最大の問題は、だらしないリアムに見切りをつけたナタリーの選択が、つまらないものだという見せ方をしていることだ。筆者からすれば、広告会社で着実にキャリアを積み重ね、主体的に行動しているナタリーの姿はとても素敵に思える。人生を前に進めるため、リアムとの別れを選択する意志も知的だ。
 しかし本作は、その知性を貶める。結局のところ、ナタリーに妥協と我慢を強いてきたリアムのだらしなさは許されてしまうのだ。最後までナタリーは、リアムを肯定しつづけるための都合のいい道具として扱われる。ナタリーの心情を丁寧に描く注意深さが致命的に欠けており、言ってしまえばリアム(とリアムに共感できる人たち)のための映画でしかない。

 そうした本作を見て思いだしたのは、音楽評論家ジェシカ・ホッパーによる『Emo: Where The Girls Aren't』だ。2003年の『Punk Planet』56号で発表されたこのエッセイは、女性をぞんざいに扱う歌詞が目立つエモの男性中心主義的な側面を抉りだし、話題を集めた。
 i-Dも言及するように、フェミニズムの視座を持ちこんだ彼女の音楽批評は大きな影響力があり(少なくとも2017年にピッチフォークがエモとセクシズムの関係性を取りあげるくらいには)、ここ数年のエモ・シーンに多様性をもたらす礎になった。ミツキ、リグレッツ、パラノイズ、L.A.ウィッチ、ドリーム・ワイフ、ゴート・ガールといった多くの女性アーティストたちが注目されている昨今の流れを語るうえでも、無視できない存在だ。そんな現在において、リアムの無頼さを許すためだけにナタリーを登場させる本作は、バックラッシュ的な側面を持った作品と言えるだろう。リアムが体現するバンドマン像は、『Emo: Where The Girls Aren't』でホッパーが批判した者たちと重なるからだ。

 このように問題点が明確すぎるため、あちこちで見かけるであろうさまざまな作品評のなかには、その問題点をどう受けとめるかで評価は変わるといった逃げの評論も混じると思う。ライターが業界を生き抜くための穏当な姿勢というやつだ。しかし筆者は、そうまでして本作に甘い態度で接する真似はしたくない。さまざまなメディアで言葉を紡ぎ、多かれ少なかれ読者に影響をあたえる特権的立場としての責任が筆者にはあるのだから。というわけで断言する。本作を観て抱いたのは、不快感だけだった。



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