不安や恐怖に覆われた世界で、きらめく 〜 いま、Phoenix『Ti Amo』が作られた意味 〜



 ある日、『VOGUE JAPAN』を読んでいると、『Interview Magazine』の元編集長クリストファー・ボレンによる80'sカルチャー論が目に入った。そのなかでボレンは、1980年代を懐かしむ空気がある現在について、こう述べていた。


〈政治的にも社会的にも、私たちは今、80年代と非常によく似た状況に置かれています。ですので、当時のスタイルや形式に心惹かれるのだと思います。(中略)私は、エイズから核戦争まであらゆる不安が渦巻いていた80年代が、いかに不安定な世界に見えていたかを、声を大にして言うことが大切だと思っています。そのような不安だらけの時代にあって、服が鎧のように巨大化していたのは当然のなりゆきな気がします。スポーツジャケットにショルダーパッドが入り、色は鮮やかな合成色、メイクは軍隊擬装のように濃く、髪はヘルメットのように大きかった。(中略)今また不安定で心もとない世界に生きていることに気づいてしまった以上、私たちはマキシマリズムや過剰なユニフォームを是とする美意識へ回帰するのは当たり前のことだと思います〉(※1)


 これは興味深い指摘だと思った。まず、エイズの不安については、多くの人が知るところだろう。哲学者のミシェル・フーコー、俳優のロック・ハドソン、ファッション・デザイナーのペリー・エリス、ピアニストのリベラーチェ、イラストレーターのアントニオ・ロペス、フォトグラファーのロバート・メイプルソープなど、80年代は多くの著名人がエイズによって命を奪われた10年でもあった。また、1985年、エイズの恐怖をテーマにした戯曲『ノーマル・ハート』がオフ・ブロードウェイで上演されたのも大きなトピックだ。
 80年代といえば、アメリカではレーガン政権が軍備拡張を進めるなど、いわゆる冷戦下であったことも忘れてはいけない。それが核戦争の可能性を人々に想像させたのも有名な話で、80年代はそうした不安が反映された表現をたくさん生み出した。映画では『ザ・デイ・アフター』、『テスタメント』、『風が吹くとき』などがよく知れられている。ここ日本でも、漫画『AKIRA』やアニメ『百獣王ゴライオン』などは、80年代における核戦争の不安を反映していたと思う。さらに、冷戦下の政治的緊張関係を見いだせるという意味では、アニメ『太陽の牙ダグラム』を加えてもいいだろう。


 こうして考えてみると、ボレンの〈エイズから核戦争まであらゆる不安が渦巻いていた80年代が、いかに不安定な世界に見えていたか〉という主張は、説得力があるように感じる。それは、今と80年代は似ているという主張も同様だ。たとえば、アメリカは今年4月、アサド政権の支配下にあるシリアの空軍基地に、59発の巡航ミサイルを発射した。このことをロシアのプーチン大統領が激しく批判するなど、世界中に緊張が走った。ミサイル発射を判断したのは、現アメリカ大統領のトランプだが、本気で戦争をしようと考えてるのかはハッキリしない。ただ、ハッキリしないところに不安を感じる者は少なくないだろうし、この不安と80年代の不安をダブらせる人がいても、不自然じゃないと思う。もちろん、まったく同じではないが。
 そんな現在に対する表現、ボレンが言うところの鮮やかな合成色、あるいはマキシマリズムや過剰なユニフォームを是とする美意識が見いだせるものはあるだろうか? 筆者のなかでは、いくつかの表現が思い浮かぶ。デミアン・チャゼル監督の『ラ・ラ・ランド』と、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の『ネオン・デーモン』だ。それぞれ作風は異なる映画だが、共に鮮やかな合成色を特徴とし、それを過剰なまでにアピールしている。また、デヴィッド・リンチ監督によるドラマ『ツイン・ピークス The Return』の第8話では、核爆弾が重要なテーマとして扱われている。これらの例をふまえると、今と80年代は似ているという主張に、一定の妥当性を見いだせるはずだ。



 なんてことを考えていたある日の夜、面白いものを観た。フランス出身のバンド、フェニックスによる「J-Boy」のMVだ(※2)。筆者からするとその内容は、笑いが止まらないものだった。司会者の衣装や照明など、80年代のMVやテレビ番組みたいな演出が際立つのだ。そうした世界観の中でフェニックスは、イタロ・ディスコに通じるいなたい雰囲気が漂う音を鳴らす。キャッチーでキラキラとしたシンセや、踊りやすいグルーヴを生み出すゆったりとしたリズムが印象的なそれは、80年代に流行ったキャンディー・ポップを想起させた。具体的には、バックス・フィズ、トリックス、ピンク・レディー、ザ・ノーランズなどだ(※3)。色使いも非常にカラフルで、それこそ鮮やかな合成色やマキシマリズムが前面に出ている。これが最新アルバム『Ti Amo(ティ・アーモ)』からの先行公開曲というのだから、いったいアルバムはどんなものになるのだろう? と心が躍ったのは言うまでもない。


 というわけで、リリース後にすぐさま、『Ti Amo』を聴いた。ズバリ最高だった。「J-Boy」のキラキラとしたシンセ・サウンドが作品全体に行きわたり、イタロ・ディスコに通じるいなたい雰囲気も色濃い。ディスコ愛が込められた肉感的なベースは、私たちの気持ちを昂らせ、踊らせる。アルバム・タイトルは、イタリア語で“愛してる”という意味だが、その愛を高らかに歌ったディスコの要素が『Ti Amo』の要になっている。また、歌詞のほうも愛や欲望といったピュアな感情をテーマにしたものが多い。表題曲や「Lovelife」なんて、タイトルからしてそれを示している。
 とはいえ、作中に不穏な空気がまったくないかといえば、そうじゃない。たとえば「J-Boy」では、〈彼らはホームレスの少女から金を盗んだ〉〈希望なき世界に吹く神風〉といった、今の世界に対する当てつけのような言葉がいくつも飛びだす。しかし肝心なのは、その「J-Boy」が本作のオープニングを飾るということだ。つまり『Ti Amo』には、今の世界に漂う不安や恐怖と向き合ったうえで、愛を歌うというひとつの物語を見いだせる。こうしたピュアな感情が渦巻く作品は、これまでのフェニックスには見られなかった。むしろ、彼らの代表曲「If I Ever Feel Better」などが象徴するように、どこか控えめで、過剰になりすぎないよう努めていたところがあった。それが『Ti Amo』ではどうだ。そうした枷を外し、ひたすらピュアな感情を表現している。


 冒頭で引用した80'sカルチャー論にて、ボレンは次のような言葉も残している。


〈今日の基準に照らしてみると、80年代は、はるかに無邪気な時代であったように思えます。それは主に、まだソーシャルメディアが出現していなかったからで、人と人との関係が今よりも純粋であったからのような気がします。従って、嘘がなくて、真に表現力豊かだったように思える時代を懐かしむ気運が今日あります。それは、『E.T.』や『すてきな片思い』のような映画、具体的に言うと〝愛すべきオタク〟という80年代に生まれたジャンルのなかで共有していた〝あか抜けないが愛しい素朴さ〟とでも呼ぶべきものを、現代の私たちは失ってしまっているからではないでしょうか〉


 この言葉を見たとき、まっさきに思い浮かんだのは、1980年代のインディアナ州が舞台のSFホラードラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』だ。2016年にシーズン1がネットフリックスで配信されると、瞬く間に視聴者数を伸ばして大ヒットしたこのドラマには、『E.T.』、『グーニーズ』、『炎の少女チャーリー』、『エクスプロラーズ』、『スタンド・バイ・ミー』といった80年代の映画へ向けたオマージュが多く散りばめられている。また、少年たちと超能力を持つ少女の絆にも焦点が当てられるなど、ジュブナイル(今でいう“ヤングアダルト”)の要素もある。これらの部分に筆者は、「あか抜けないが愛しい素朴さ」と類似するものを見いだした。
 そしてこの類似性は、ピュアな感情がほとばしる『Ti Amo』にも言えると思う。悲しいことに、ここ数年のフランスはテロ事件が相次ぎ、加えて排外的思想を打ちだす極右政党の国民戦線が無視できないほどの勢力になるなど、今の世界に漂う不安や恐怖の中心ともいえる国になってしまっている。こうしたフランスから出てきたフェニックスが、『Ti Amo』でストレートに愛や欲望を歌う。おまけに、歌詞では英語、フランス語、イタリア語を用いたりと、まるで多様性を寿くかのようなこともしてみせる。80年代と今の状況が似ていることを意識して、フェニックスが『Ti Amo』を作ったかは定かじゃない。しかし、これだけはハッキリ言える。世界が不安や恐怖に覆われたときの希望になりえるというポップ・カルチャーの魅力を、『Ti Amo』は最大限に発揮している。このことに筆者は心の底から感動した。その魅力こそ、筆者がポップ・カルチャーにのめり込み、こうして書きつづけている理由そのものだからだ。



※1 : 『VOGUE JAPAN』2017年5月号に掲載の記事「アメリカ発、80sカルチャー論。」を参照。

※2 : 「J-Boy」のMVです。


※3 : 「J-Boy」のMVと比較してみると、いろいろ発見があると思います。バックス・フィズ、トリックス、ピンク・レディー、ザ・ノーランズの順で並んでいます。


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