彼女たちは、あなただ 〜 映画『アズミ・ハルコは行方不明』〜



 『害虫』(2002)という映画を観たときの衝撃は、いまも鮮明に覚えている。主人公は、13歳の少女・サチ子(宮﨑あおい)。周りに媚びず、世間に迎合することもしないサチ子は凛々しく見える。しかしそれは、そうせざるをえない環境にいるからだ。母親は自殺未遂を起こし、その母親の恋人には性的暴行を受けそうになる。だが、その苛酷な環境に反発する自発的意志もある。好きなように生きたいが生きられない憤りと、ここから抜けだすことはできないという諦念の狭間で、サチ子は引き裂かれるような思いに襲われる。
 そんなサチ子の姿に筆者は、“世間” とされるものに馴染めない者の末路を見いだしてしまい、とても息苦しくなった。どす黒い性的まなざしを向けられ、そのような境遇を同級生の夏子(蒼井優)からは「かわいそう」と言われてしまう。こうした “世間” との別れを望んでいたのは、さらなる闇に入っていくであろうと思わせるあのラストを見てもわかるというものだ。あのラストでサチ子が浮かべる表情には、“世間” という名の呪いに対して中指を突きつける反骨心と、“世間” から解放された安堵感が入り混じっていた。


 このような呪いは、映画『アズミ・ハルコは行方不明』でも見られる。本作は、“世間” の要請に応えられない者たちを通して、“生きのびること” を描いている。物語の中心は春子(蒼井優)と愛菜(高畑充希)だが、男への復讐を動機に男を襲う女子高校生ギャング団のリーダー(花影春音)、職場で上司からセクハラを受けているひろ子(山田真歩)など、登場人物の多くが “世間” の一側面を表象し、あなたの心を執拗に揺さぶる。
 興味深いのは、その一側面が女性に対する男性の目線ばかりという点だ。たとえば春子は、会社で上司から「女は若いうちに結婚するべき」とセクハラされるし、愛菜は “若さ” というナイフで心をズタボロにされる。これらの要素を引きたてるように、本作に出てくる男たちはどれもクズだ。ユキオ(大賀)は愛菜を使い捨て10代の女とやろうとするし、そのユキオの友達である学(葉山奨之)も、イラつくほど受動的な腰巾着。正直、シンパシーを感じるところがひとつもない。
 こうした男に批判的なまなざしのボルテージは、女子高校生ギャング団と警官隊が映画館で対峙するシーンで頂点を迎える。男だらけの警官隊が、女子高校生ギャング団の “一発” をキッカケに次々と倒れていくさまには、抑圧からの解放とそれを可能にする連帯の尊さが見てとれる。このシーンはスローモーションを活かした演出も素晴らしく、あなたに心地よい高ぶりをもたらしてくれるだろう。


 だがそれだけに、本作の問題点が面白さを削いでいることは残念でならない。まず、時系列をバラバラにしている意味がない。登場人物のドラマは興味深いもので、そこにしっかり焦点を当てたらより深い作品になったと思う。筆者はこう感じている。こけおどしのギミックで水を差したのは、登場人物たちのドラマと真摯に向き合う覚悟が、監督の松居大吾になかったからではないかと。
 また、ラストも微妙だった。もし、春子、愛菜、えり(菊池亜希子)だけだったら、子供も授かり家庭を持つという道も含めて、それぞれの幸せを選べる自由と希望を伝えることができたのではと思う。筆者からするとあのラストは、根強い母性信仰の影がちらつき、画一的な価値観を表してるように見えた。このあたりは、ジェンダー・ギャップ指数が世界144ヶ国中111位の日本ゆえの限界か、とも思う(※1)。


 とはいえ、本作を観て “私だ!” と感じた人にとって、励ましになる作品なのは確かだ。いまだ不平等や不寛容が蔓延る現代を生きのびるためのヒントがたくさん散りばめられている。そしてそのヒントは、女性以外の人たちにも希望をあたえてくれる。“常識” や “規範” とされるものから逸脱してしまった者たちで繋がれるじゃないかという希望を。それこそ、女子高校生ギャング団のように。彼女たちは、あなたなのだ。



筆者注 : 映画『アズミ・ハルコは行方不明』は、12月3日から全国公開されます。http://azumiharuko.com/

筆者注2 : 僕が書いた〈映画『アズミ・ハルコは行方不明』の愛菜に見る、“若さ”という呪い〉も合わせて読んでいただけると嬉しいです。https://note.mu/masayakondo/n/n9799846d52a2

※1 : 朝日新聞の記事『日本の男女格差、111位に悪化 G7で最下位』を参照。http://www.asahi.com/articles/ASJBS7X9HJBSUHBI03R.html

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