映画『アイ・アム・マザー』



 グラント・スピュートリ監督にとって、『アイ・アム・マザー』は長編映画デビュー作である。脚本を務めたマイケル・ロイド・グリーンも映画界の新顔で、知名度は高くない。だが、そうした2人を中心に作られた映画はとても興味深いものだ。

 舞台となるのは、シェルターに住むひとりの少女(クララ・ルガアード)を残し、人類は滅亡した世界。少女は、シェルターでドロイドのマザー(ローズ・バーン)に育てられた。マザーはシェルターを「人類がやり直すための施設」と呼び、少女にさまざまな教育を施していた。
 ある日少女は、施設外からの助けを求める声に気づく。それに応えてエアロックを開けると、負傷した女性(ヒラリー・スワンク)が倒れこんできた。この出来事がきっかけで、少女は人類が滅亡していなかったことを知り、マザーの言葉に疑問を抱きはじめる。

 本作は典型的なSF映画で、いわゆるポスト・アポカリプスものだ。少女、マザー、女性の3人しか劇中に登場せず、物語のほとんどはシェルター内で展開される。そうした密室劇とSFの組み合わせは、アレックス・ガーランド監督の映画『エクス・マキナ』を彷彿させる。
 とはいえ、『エクス・マキナ』ほど急進的な作りではない。女性の登場によって物語を急展開させつつ、適度にハプニングも挟み、変化する少女の心を描いていく手法は王道の中の王道だ。それを作りあげた手際の良さは評価できるが、斬新さや刺激という点では物足りなさも感じる。

 一方で、少女、マザー、女性の心理描写には興奮させられた。特に目を引いたのは、少女と女性の見せ方だ。同じ世界に生きる2人だが、人間と接しないまま高度な教育を受けてきた少女と、外の世界を知る女性では、視点がまったく異なる。そのせいで、マザーを危険視する女性の言葉に、少女が反抗心を表すシーンも登場する。ところが、女性の言葉を考えるうちに、少女は外の世界への興味を膨らませていく。そこから少女、マザー、女性の間に緊張関係が生じ、状況も目まぐるしく変わる。この緊張感のなかで、少女の心は絶えず揺れ動く。マザーに従っていただけの頃とは違い、シリアスな表情やイライラした仕草も増える。
 揺らぎは少女にさらなる成長を促す。マザーの教育だけを信じてきた少女は、外からやってきた女性の価値観に触れることで、ようやく独自性の強い信念を持つようになる。それはマザーのコピーでも、女性のコピーでもない。強いていえば、その2つが混じりあっている。少女の成長を見たマザーは、物語の終盤で銃を持った少女の前に立ちはだかり、選択を迫る。そして少女はそれを見事に乗り越え、母となるのだ。

 このような本作は、平安でない状況によって成長を促進させるという意味で、ニーチェの超人思想に近いものを見いだせる。あるいは、その超人思想に影響を受けた教育学者エレン・ケイの考えに通じる。
 ケイといえば、1900年に出版した著書『児童の世紀』が有名だ。この本でケイは、子どもは社会の掟に従うことを学び、そのうえで自分の良識に反するかどうかを検討し、それを破ることを学ぶべきだと述べている。教えることの重要性を認めつつ、型に嵌めて干渉しすぎたり、矯正しようとする教育のあり方には否定的だ。村井尚子の論文『エレン・ケイにおける子どもの自由について』も示すように、ケイは子供の逸脱に肯定的である。そのようなケイの思想は、マザーを乗り越えた少女の姿にピタリとあてはまる。

 少女の選択には、ひとつの価値観で統一された画一的光景、もっと言えば全体主義への批判を見いだせる。マザーは少女を育てる前に、2人の女の子を処分していたことが劇中で示されるからだ。銃を持った少女に選択を迫るシーンのセリフから察するに、マザーの目的は女性の胎芽を母として育て、その母と一緒に他の胎芽を成長させることだった。しかしそのためには、マザーが考える母としての基準を満たさなければならない。だからこそ、マザーは執拗にテストを繰りかえし、管理も徹底した。少女の誕生前に殺された2人の女の子は、基準を満たすことができなかったのだろう。
 それでも、3人めでようやく基準をクリアする存在が現れた。少女である。だが少女は、マザーの思惑を拒否した。取り巻く状況のすべてが明らかになったうえで、自分ひとりで胎芽を育てられると喝破するのだ。そして少女は、マザーとの決別を選ぶ。

 これは紛れもなく、マザーを否定する行為だ。基準を満たす者以外は殺し、優れた遺伝子だけを残そうとする優生学的価値観を隠さないマザーに、少女は従わない。
 そうした決断を下すところで、『アイ・アム・マザー』の幕は降りる。ゆえに少女がどんな母になるのか、私たちはわからない。しかし何よりも重要なのは、少女がマザーの価値観を否定したことだろう。少なくとも、ひとつの完璧な人間像を想定し、そこから漏れる者は排除するなんてことはしないはずだ。さまざまな解釈の余地を残す本作だが、そこだけは明確に描かれている。この点に筆者は、人間とはいろんなタイプがあり、そのすべてが尊いというメッセージを見いだす。



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