ポップ・カルチャーと社会~私たちはあなたの言葉を必要としている


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 ポップ・カルチャーと社会。ブックオフの108円コーナーに陳列されている、薄っぺらい新書のタイトルみたいだ。しかし、本稿の内容に沿ったものをと考えたら、これ以上のフレーズは思い浮かばなかった。ポストモダンかぶれの思わせぶりなやつはゴメンだし、ならばとストレートに表現してみた。
 本稿を書こうと思い立ったきっかけは、上西充子の著書『呪いの言葉の解きかた』を読んだことだった。この本は呪いの言葉に対抗するためのヒントを示してくれる。“嫌なら辞めれば” “これだから女は” “なにがあっても家族なんだから”など、日常には抑圧的な言葉が多い。それを浴びたせいで学校や仕事場に行けなくなり、最悪の場合この世からフェードアウトする選択をしてしまう。そうならないための処方箋を記したのが『呪いの言葉の解きかた』である。

 読み終えた後、究極の抑圧とはなんだろう?と考えた。多くの答えが浮かんでは消えを繰りかえした結果、“暴力”という2文字に固まった。たとえば、ほとんどの人が正当だと感じる主張のデモも、権力はそれを強引に圧殺できる。警察や軍が催涙弾を使い、一般市民を次々と排除していく様子は至るところで見られる。たったひとつの銃声で希望は絶望に変わり、勝利へ歩みを進める高揚感は瞬く間に恐怖で支配されてしまう。



 こうした変貌を上手くとらえたのが『ザ・ソサエティ』というドラマだ。このドラマは、突如町の大人が全員消えてしまい、困惑する高校生たちを描いている。不思議なことに、町の外へは出られない。親に電話をかけても繋がらず、大人たちがいつ戻るのかも不明だ。そこで高校生たちは、自らさまざまなルールや仕組みを作っていく。当番制で全員が仕事をし、飢えないように食事の配給も厳しく管理する。そうして秩序を作りあげ、町が元に戻るまで平和な日々を過ごす...はずだった。
 哀しいことに、秩序の厳しさは反発も呼んだ。最初はみんな従っていたが、一部の者は徐々に不満を募らせ、それはやがて怒りと憎しみになった。最終的にその者たちはクーデターを起こし、秩序の維持に務めていたアリー(キャスリン・ニュートン)やウィル(ジャック・コリモン)を不当逮捕する。

 『ザ・ソサエティ』は、暴力や恐怖によって民主的社会が蝕まれる様を突きつける。いくら素晴らしい理想を掲げても、それについていけない者の弱さに暴力や恐怖は容易く付けいり、秩序を内側から食いやぶるのだと言わんばかりに。
 だが筆者は、その怖さにぶるぶる震えながら、別のところにも注目していた。高校生たちが築きあげた社会で、ポップ・カルチャーが重要な役割を果たすことである。劇中での高校生たちは、交流と息抜きのためプロムを開催する。そこではDJがたくさんの音楽を流し、場の雰囲気を作っていた。別の日には映画の上映会もおこなわれる。大人がいない不安も和らいだのか、映画を観ている高校生たちは笑顔だ。こうして繋がりを深めていく姿は、音楽、映画、小説など、あらゆるポップ・カルチャーが社会の形成に関わっているのだと教えてくれる。

 その姿を見て、筆者はポップ・カルチャーと社会の関係に想いを馳せた。ポップ・カルチャーには政治思想の喧伝やそれを塗りかえる手段としても使われてきた歴史がある。キリスト教の集会では、神の存在を寿くために賛美歌が歌われた。映画の力を熟知していたアドルフ・ヒトラーは、レニ・リーフェンシュタールに『意志の勝利』というプロパガンダ映画を作らせた。ジェイムズ・ボールドウィンは差別や抑圧に晒される黒人の心情を小説に託し、マルコ・モランテは多くのトランスジェンダーモデルやノンバイナリーモデルをランウェイで歩かせた。このようにポップ・カルチャーは、良くも悪くも私たちの社会に影響をあたえてきたのだ。時には悪用され、時には弱者の居場所を作るための武器になった。


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 それを知るからこそ、私たちは批評という行為を通してポップ・カルチャーを見つめ、そうして得た何かを言葉にしなければいけないと感じる。言葉は流れを加速させるアクセルにもなれば、事故らないよう速度を落とすためのブレーキにもなるのだから。先に書いた呪いの言葉や暴力を打ち消すことだって可能だ。イ・ミンギョンの著書『私たちにはことばが必要だ』も示すように、非難や中傷に晒されてもそれに対抗する言葉を紡いでいけば、状況を変えることができる。
 筆者のフィールドであるライター界でいえば、ジェシカ・ホッパーがそうだ。彼女は2003年に『Emo: Where The Girls Aren't』というエッセイを発表し、当時隆盛していたエモの男性中心主義的側面を抉りだした。このエッセイは大きな反響を呼び、セイント・ヴィンセントやスネイル・メイルなど、多くの女性アーティストが活躍する現在のロック・シーンの流れを作ったことは、以前も指摘した通りだ。

 暴力や犯罪行為を助長するとの理由で、YouTube上からUKドリルのヴィデオが削除されたときも、言葉は重要な役割を果たした。ロンドンのUKドリル・クルー1011による削除反対の署名活動には、7000人近くが賛同している。イマーン・アムラニを筆頭に、ジャーナリスト側からも削除することへの批判が巻き起こった。それらの動きは、現在のイギリスをふまえれば妥当なものだ。この国がいま緊縮財政下にあるのはよく知られている。2018年にNYタイムズで公開されたレポも示すように、さまざまな公的支援の予算が大幅に削られた結果、貧困層が増え、犯罪率も上昇した。
 1011やイマーンのアクションは、このような状況を作りあげたほうに問題があると、私たちに気づかせてくれた。UKドリルが暴力を生みだすのではなく、殺伐とした社会の産物がUKドリルなのだ。そうした音楽は害になるどころか、抑圧や差別に苦しむ存在を示すジャーナリズム的役割だって担える。

 i-Dは批評に関するかなり悲観的な記事をアップした。しかし、そのペシミズムに迎合する気は毛頭ない。批評のあり方の変化は、批評が必要なくなったことを意味しないからだ。むしろ、差別的言説や抑圧がますますひどく、しかも巧妙な形で私たちのすぐ隣に忍び寄ってくる現在において、それらを打ちかえすための批評眼はいままで以上に必要とされるだろう。
 その眼は批評家やライターのみならず、私たち全員が持てるし、持つべきだ。言葉は誰かの特権ではない。痛いなら痛いと、苦しいなら苦しいと、あなたは言える。そうした表現の積みかさねが社会を変えるのは、筆者が示した例からもわかるはずだ。私たちはあなたの言葉を必要としている。

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