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大阪地裁裁判長「徳地淳」という恥知らず

赤木雅子さんが、財務省から大阪地検特捜部に提出された関連文書を不開示とした同省の決定取り消しを求めた訴訟の判決で、大阪地裁(徳地淳裁判長)は14日、請求を棄却した。

徳地裁判長は判決理由で、文書を開示すれば「事件の捜査における手法や対象などが推知される恐れがあり、今後の似たような刑事事件の捜査に支障が生じかねないとする国側の判断は妥当」と判断し、不開示決定を適法とした。

国側の主張だけをそのまま認めただけの判決である。原告が求めていた「改竄の経緯」に該当する箇所の開示さえ認めなかった。司法の独立と裁判官の良識を疑わせる判決だ。無惨としかいいようがない。

法廷を後にする徳地裁判長に、傍聴席からひときわ大きな声が響いたそうだ。

「恥を知れ!」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/329193

赤木雅子さんの情報開示請求に対して、国側が不開示の根拠としていたのは「存否応答拒否」だ。行政機関に請求があった文書の開示を原則義務付ける情報公開法の例外規定として設けられている。

開示の請求に対して、対象となる文書があるかないか自体を明らかにしないまま回答を拒否できる制度で、不開示情報としては、次のようなものが定められている。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/gyoukan/kanri/jyohokokai/kaiji.html
(1) 特定の個人を識別できる情報(個人情報)
(2) 法人の正当な利益を害する情報(法人情報)
(3) 国の安全、諸外国との信頼関係等を害する情報(国家安全情報)
(4) 公共の安全、秩序維持に支障を及ぼす情報(公共安全情報)
(5) 審議・検討等に関する情報で、意思決定の中立性等を不当に害する、不当に国民の間に混乱を 生じさせるおそれがある情報(審議検討等情報)
(6) 行政機関又は独立行政法人等の事務・事業の適正な遂行に支障を及ぼす情報(事務事業情報)

今回の訴訟では、雅子さん側が不開示決定の取り消しを求めた文書が (4)国家安全情報に該当するかどうかが主に争われた。

徳地裁判長は、開示により将来の捜査に支障が及ぶ恐れがあるとの理由で、要件を満たすと判断したのである。

だが、この判断は正しいといえるのだろうか。

もう一度、この事件をふりかえってみよう。

森友学園への土地売却を巡り、決裁済み公文書の改竄を強いられた赤木俊夫さんが命を絶ってから5年半になる。

なぜ俊夫さんは死ななければならなかったのか。「真相を知りたい」という雅子さんの闘いが続いている。

8億円余も値引きして国有地を売った森友学園の名誉校長に、安倍晋三首相(当時)の妻昭恵氏が就いていた。安倍氏は国会で「私や妻が関係していたら総理大臣も議員も辞める」と発言する。

昭恵氏の名や発言を削る改ざんは、この直後に始まった。

財務省は調査報告書で、改ざんは安倍氏の発言を機に、理財局長だった佐川宣寿氏が「方向性を決定付けた」と認めた。だが、それ以上は踏み込まず、核心となる動機や指示系統は伏せられた。

雅子さんは、国と佐川氏に損害賠償を求めて提訴した。

2021年6月22日、裁判所の命令を待たずに、国は赤木さんが改ざんの詳細を書き残したとされる「赤木ファイル」をようやく開示する。

だが、関係した職員の名前などは黒塗りにされ、佐川氏の指示内容や財務省内のやりとりはつかめない。国はファイルは行政文書でないと言いながら、原本を遺族に返しもしなかった。

しかも、12月15日、請求の棄却を求めていた国が、一転して賠償責任を認め、約1億700万円の損害賠償を求めた雅子さん側の請求を「認諾する」と伝えた。

認諾は、被告が原告の請求を認めるもので、裁判所の調書に記載されると、確定判決と同じ効力を持つ。

改竄問題が追及されることを恐れて、訴訟を終わらせようとしたあからさまなやり口である。

約1億700万円。これは国民の税金である。政治家と官僚たちは追及を逃れるために使ったのだ。許されることではない。

森友問題には権力の私物化、政官の関係のゆがみ、無責任、隠蔽体質が潜む。5年半が過ぎても関係者は口を閉ざし続けている。

行政文書の開示は、閉ざした口を開かせ、真相の解明につながる。真相の解明こそ司法の果たすべき役割であろう。だが、今回の判決はそれさえも放棄したのだ。

徳地淳という裁判官は、なぜ、自らの役割を放棄する判断をしたのだろうか。

昨年11月25日、改竄を主導したとされる当時の財務省理財局長・佐川宣寿氏に損害賠償を求めた裁判が同じ大阪地裁で行われた。判決は原告の請求を棄却。

この時の裁判長は、中尾彰裁判官だ。この判決から明らかになったのは、裁判官の「バカの壁」である。
https://note.com/masayuki_onodera/n/naf10d4c003bc

「法」は本来「道義と道理」を守るためにある。判例や法文はその積み重ねの結果であり、「道義と道理」によって常に修正されるべきものである。

だが、既存の法文や判例を絶対視するあまり、「道義と道理」から外れ、恥知らずな判決であっても、それに気づかない。

自ら築いた「バカの壁」に視界を遮(さえぎ)られて、事の「本質」を見失っているからだ。

徳地淳という裁判官の周りには、どんな「バカの壁」が巡らされているのだろうか。

(写真はNHKの動画から)
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230914/2000077860.html


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