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笑い飛ばすことの重要性


※本ブログは3度繰り返して読んでいただくと情報が有益なレベルにまで浸透します

笑い飛ばすの飛ばす、とはなんだろうか

笑いによって分離される成分とはなんだろうか

先日、学生時代の友人の挙式のために久しぶりに同期のメンバーと再会した。毎回のことだが飲み席では会社を起こしたり、瞑想のようなものを生業としている人は周りにあまりいないので当然これらのことに関しては質問を投げかけられる。

そこで面白いのは基本的に私がいくら真剣に、もしくはテキトーに自分のやっていること、つまりこのブログで毎回書いてきたようなことを話しても結局それはすべて飲みの席の肴として笑い話にされてしまうことである。

意識の構造→怪しい→宗教→笑い
月の光→怪しい→宗教→笑い
パワーストーン→ツボ買わされる→宗教→笑い
デトックス→怪しい→宗教→笑い
錬金術→漫画の読みすぎ→中二病→笑い

この様な感じでなんでもかんでも結局は〈まがいもの認定からの→笑い〉というところに収束する。私はいつもこうして同期のメンバーからバカにされ続けているわけだが、そうやって笑い者になるのは非常に面白いと私自身思っている。

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誰でもそうだと思うのだが、自分が真剣に取り組んでいるものは、あくまで相対的に自分にとってだけ価値のあるものとなっていく。それがいくら自分の中で重要なものになっていったとしても、すぐ隣の人にとってはミジンコほどの価値しかないものはいくらでもある。私は同期のメンバーと飲みながらそんな当たり前の事実をいつも思い出すことができる。

価値とは自分が与えているだけだと気がつくことができると、どんなに楽だろうか。自分が経験してきたことが価値のあるものだ、と考えることで自信を持つことはできるかもしれないが、そんな経験や知識すら実際はどうでもよい人にとっては心底どうでもよい事なのだということをいつも知っていることは大切なことだろう。

正しさを確かめようとしない、という姿勢はこの点で本当に万能である。これは少し別の話にもなるが結局、価値観を尊重しない人が世の中には実際たくさんいるものだ。ただ、私たちができることは価値観を尊重しない人々がいることを事実として認めてそれを尊重することができるか、ということがポイントである。

こういったことをつらつらと考えていくと笑いによって起きるのは〈価値観の中和作用〉ということだろう。だから一度、自分が一番重要だと思っている何かしらの対象を思いきりバカにしてみたり、笑い飛ばしてみることをオススメする。

私は常に逆刃刀の様に〈矛盾性の同居〉ということが本質的だと感じているのでますますそう思うのだが、ド真剣に取り組みながらいつもどこかで自分は頭がおかしいんだ、とわかっていることができるかどうか、ということだろう。

私はきっと頭がおかしいに違いない。



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