見出し画像

無題

『新田と個人面談』というのをやらせて頂いて、
ほぼ全員に共通することは
「セルフブランディング」に関することでした。

写真を撮る人も、撮られる側の人も。

多くは自分が好きなことをしていって、
SNSなどのメディア拡散でマスに拡がっていって、
最終的にマネタイズする。
そこがひとまずのゴール、という感じでしょうか。

参加された方にはかなり細かくお話させてもらいましたが、
はっきり言って
「ぶっちゃけもうポートレートなんて撮っても(撮られても)、きついと思うよ」

女性を主題としたポートレートは、もう飽和も飽和、
参加する人もどんどん増えて、情報もどんどんシェアされて、
レタッチの色味とかなんて販売されてしまってるわけだから、
レベルがどんどん底上げされています。
その中で静寂の中で落ちた金属のイヤリングの音のような、煌めく才能の持ち主は見出されますが、
ほとんどの人はそこからの景色を見ることはできません。
なにかその人にしかできない、強いコンセプトがなければ何者かになるのは難しいでしょう。
もちろん僕も何者かになれていない側の人間です。
僕には残念ながら煌めく才能がありませんでした。
そんな僕がなんとなく今こんな感じになれたのは
自分に見切りをつけて、
「他者のため」に写真を撮っていたからなのかな、とつい最近感じました。
自分に見切りをつける、とは
自分が撮りたい写真など、誰も興味はないんだと、自分を突き放したということです。
今回の個人面談のために、たくさんの人の写真を見させて頂いたのですが、
自分が撮りたいように撮っている写真、
自分が見えてるものを撮っている写真、がほとんどなんです。
もちろん、表現の手段としての写真だから間違ってはいないのですが、、
気に入った人を、気に入った場所で撮って、それをSNSにpostして、、
そこには「他者」が存在していないように思うんです。
もちろん、likeの数とか、フォロワーの数とか、そういう他者は気になるとは思うのですが、それは数字という結果であって、
赤い血は流れていません。
被写体主義になれ、というわけでもないのだけれど、
例えば自分の彼女を所有物のように撮るのも違うし、
彼女じゃない人を恋人のように撮るのも違うし、
(コンセプトが良くないのではなくて、もう死ぬほどありふれている)
なんかそういう男性目線で撮って観る側をミスリードしていく写真は、長くみたら愛されないのではないかな、と僕は感じてて。
その人が上品に見えたり、
新しい魅力が映っていたり、
そして手の届かない感じ、圧倒的他者性みたいなもの、
ようは「撮影者の変な意識(承認欲求とかそういうの)」をいかに映さないかが、
一番大切なんじゃないかなあ、と思っています。
そして僕はなるべくそういう風にしてきたから、モデルさんの指名でお仕事を頂いているし、
数字は伏せますけど、多分写真だけでも生活していける感じではあります。スケジュールの関係で、半分くらいは断ってしまっていますが。
だから、そう。
他者を撮っているようで、実は理想を撮っているような写真が多いんですよね。
時間はかかるかもしれませんが、自分の意識を介入させずに淡々と何かを撮ってみて、
SNSなどにも発表せず、撮り続ける、みたいなことがいいのかもしれません。
写真新世紀で受賞した作品「横須賀regret」もそうでした。
2年間、ほとんど誰にも見せることなく、撮り続けてましたから。
そうやって、静かに醸成していく写真。
前ばかりみて走る人たちの中でひとり、
後ろ向きに走るくらいの方が、息長く活動できるのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?