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カテゴライズは何のためにあるか

「あの人は○○だから〜」
普段から何気なく、こんな会話をすることがある。他者が自分の特性と違うものを持っていることが分かると、突然その言葉が指す範囲は広がる。「女は〜」「障害者は〜」という発言は往々にしてエスカレートしてしまう。

大きな議論を呼んでいる、自民党の杉田水脈議員の発言をめぐる動き。7月18日に「彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり『生産性』がない」と月刊誌に記した。わたしは、その発言についてずっと考えていた。杉田議員を叩く声がSNSに溢れるのを見ながら、まとまらない思考を泳がせる。

杉田議員の発言は度を越した差別的発言である。だけど、冒頭で記したように、わたしたちも軽い気持ちで誰かをカテゴライズしてしまうことがある。普段から自分と違うと感じた人に対して思っていることと、杉田議員の発言は、程度の差が違うだけなのではないかと思い至り、体が震えるほど怖くなった。

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では、カテゴリを分けなければいいのか、というと、それもまた違うのだろう。たとえば、今の10代〜20代くらいの人たちにとって、LGBTや障害者など、社会的マイノリティと言われる人たちに対する感覚はもっとなめらかなものであるらしい。ある大学生と話したときのことを鮮明に覚えている。

「みんな同じなのに、どうしてそんなに『違うということ』に大人が騒ぐのか分からない」

まっすぐな目で話した人の素直さに、わたしはただ心を打たれていた。すると、わたしと同世代の30代の友人がこう言った。

「あなたくらいの世代ではもう『みんな同じ』という感覚が一般的なんだね。でも、カテゴリを付けるのは、そのほうが支援を受けやすいという面もあるんだよ」

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カテゴライズは差別のためではなく、支援のためにあるという考え。中には自分が何かに勝手に振り分けられることに、違和感をおぼえる人もいるだろう。わたし自身も精神障害者として障害者手帳を手にしたときは、自分で発行を頼んだにも関わらず複雑な思いを持った。「精神障害者」の枠で生きなければいけないと言われているような気持ちになったのだ。

だけど、精神障害者手帳や自立支援制度(医療費の一部を自治体が負担してくれる)を使えるようになったことで、生活はぐっと楽になった。それは、障害者というカテゴライズがされ、支援される対象になったからだ。

今回の杉田議員の発言で、彼女は「子どもを生むかどうか」で生産性を語っているが、そんなことができるものでもない。生産性で人間の価値が分かれるわけでもない。ひとつひとつ反論を重ねていくべきなのだけれど、まずは大元の「カテゴライズ」について考えてみたい。杉田議員が行ったのは「差別のためのカテゴライズ」だ。しかもその考えを、支援に近い立場である国会議員という立場で、公の場に晒してしまった。

誰かと自分に線をひくこと、グループ分けすること自体は多くの人がしていることだろう。だけど、そのカテゴライズを何のために行っているのか、しっかりと考えたい。誰の心の中にも、差別意識はある。わたし自身にもあるだろう。だからこそ、そのことに目をそらさないでいたい。

そのカテゴライズは、ただ他者と自分を分け、差別するためだけになっていないか。わたしたちはもっと自覚的になることが必要なのではないかと思う。

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