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「愛して欲しかった」って言ってもいいんだよ

心の問題に悩み続ける日々を送っていて、いろんな病院やいろんな人にアドバイスを求め続けて答えを探し続けてきた。答えはまだ見つかっていないし、苦しくて辛くて寂しいのも解決しない。

でもその中でわたしは、「人は案外自分の中に既に答えを持っている」ということに気づいた。通院とカウンセリングを続ける中で、特に今のカウンセラーさんはほとんどわたしにアドバイスをしない。カウンセリングの手法的にも、50分間ほぼわたしが思いついたこと感じたことを話し続け、時折カウンセラーさんが感じたことを言ってくれたり、話を整理してくれたりする形だ。

カウンセラーさんを含め、わたしの周りの人に「ああしろ、こうしろ」「あなたはこうだ」と決めつけたりアドバイスしてくる人はいない。それでも、しかも自分に自信が持てないことが多いわたしでも、わたしはわたしを持っている。わたしは自分の答えを持っている。

問題は、母のことだった。

わたしはどんな人にも、家族の話になると母の話をたくさんした。わたしの母は看護師と助産師の仕事をしていて、わたしの父と結婚する前からそれはそれはバリバリ働いていたそうだ。わたしが小さい頃も例外ではなく、よく夜勤があったりして、夜中に目がさめると隣に母がおらず、寂しくて泣き、父になぐさめられたことを鮮明に覚えている。

でもわたしはそんな母をかっこいいし憧れだとよく人に話していた。「わたしの母はバリバリ働いていて、そんじょそこらの男より稼いでいて、経済的に自立しているからわたしの父に言いたいことを我慢するようなこともなかった(ように見えた)、だからかっこいいんだ」と。

32歳である今、やっと気づく。

年齢的には全くもって大人なのだけど、今までわからなかった。その「母がかっこいい」というのは、「もっと愛して欲しかった」という気持ちの裏返しだった。わたしはもっと母にそばにいてほしくて、愛情が感じられることをもっともっとして欲しかった。小学生の頃から鍵っ子だったりよその家に預けられたり学童保育に通っていたが本当は嫌だった。学校から帰ったら家にいて、「おかえりー」とあの声で声をかけてくれて、手作りのお菓子でも出して欲しかった。

そんなたくさんの「愛して欲しい」という気持ちに蓋をして、「母はかっこいいし、わたしの憧れだから、わたしも母みたいになるんだ」といろんな人に言っていたのだ。結婚式の花嫁の手紙にも母はわたしの憧れだと書いて読んだ。

先日、自分の中で大きなきっかけになる映画を見た。

TSUTAYAのジャケ借りという、映画のジャケットが隠されていてただその映画についてのキャッチコピーが添えられているだけのコーナーに偶然立ち寄った時のことだ。そこでわたしは「認めて欲しいから。愛して欲しいから。」というキャッチコピーに惹かれ、まさに人間関係に関するわたしの気持ちだと感じた。そのDVDをレジに持って行って店員さんが「中身はこういう映画ですが、借りますか?」と確認をしてくれた。てっきりラブストーリーだと思っていたが、全然そんな雰囲気のない、重そうな映画だった。借りるのを迷ったが、何かの縁かと思い借りてみた。

「ジャッジ〜裁かれる判事〜」というその映画は、ものすごく簡単なあらすじを書くと、父に認めて欲しい男性が奮闘し、父と激しくぶつかり合う映画だ。

映画の中では、海外だからということもあるかもしれないが、父と子が激しく言い合うシーンがある。わたしにはできそうにないと思ったが、「お前は優秀な弁護士だと自分を語るが大学の学費を出したのは俺だ!」「俺はあんたに認められたかった!大学を首席で卒業したのに!」と、序盤はお互いコミュニケーションを避けていた二人が嵐の中激しく言い争いをする。

そこでわたしは、自分の感情や、認めて欲しい愛して欲しいという気持ちは言ってもいいものなのか、と衝撃を受けた。

カウンセリングで、わたしの下手くそなあらすじと共に、その映画の話をした。「その映画を見て、どういう風に思われましたか?」と聞かれ、少し悩んだと思う。それでも「わたしも、母に気持ちをぶつけてみたいと思いました」という言葉が自分の口から出てきた。

カウンセリングって不思議だ。話しているというより、勝手に自分の中から言葉が出てくるという表現がぴたりとはまる感覚がする。

わたしは、母が大好きだし父も大好きだ。二人に育ててもらえて幸せものだと思っている。二人もとても一生懸命わたしと弟を育ててくれたのは間違いないだろう。

でも、それでも。子どもであるわたしの感じ方は、わたしだけのものだ。

両親がどう育てたかはある意味であまり関係がない。結果的にわたしが寂しいと感じたことは、それはそれで事実なのだ。だから否定したり気持ちに蓋をしなくていいのだ。「愛して欲しかった」って言ってもいいのだ。他の何かで、母から得られなかった愛情を埋めようと、必死にならなくていいのだ。

「好きって思ったときに、好きと言う」というのがわたしのモットーだった。だけど自分のことはいつまでも好きになれなかった。そのルーツは、大好きな母にあるような気がする。母を、両親の子育てを否定するようで認めたくなかった。でもわたしも生きていかなければならない、人を愛し愛されたい、この先、子どもも持つかもしれない。

だから、「愛して欲しかった」って今度母に言ってみようと思う。泣くかもしれない、今すでに書きながら泣いているから。そしてすぐに解決もしないだろう。母を傷つけたり、怒らせたりしてしまうかもしれない。

でもそれでも、わたしは生きていかなければいけない。自分にもっとオッケーを出せるようにならなければ生きていけない。先日、いのちの電話に初めて電話をかけたくらいの切迫した状況なのだ。もちろんそんな状況になっていなかったとしても、

「愛して欲しかった」って言っていいんだよ。って自分にオッケーを出そうと思う。


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