たとえば、愛について。(ララランドを観て)
とてもとても大好きな人がいた。でも、その人との恋は叶わなかった。
恋が叶わない、そんなこと誰にでもあるだろう。人生で起こる、よくある話だ、悲しいけど。恋って、恋愛って、愛ってなんだろうか、なんで叶わないのだろうかと涙が止まらない夜もあるだろう。わたしもあった。
でも、愛について考え、自分の中で少しだけれど形を持つような、そんなきっかけがあった。
それは映画「ララランド」を観た感想を友達と話し合っていたときだ。一緒に観た友達と映画館を後にしながら、わたしは「ねえあの映画ハッピーエンドじゃないの?!あんな感じなの?!」と半分泣きながらその友達に感想を述べた。
わたしは、メインの男女の二人がそれぞれ夢を叶えたところはもちろんハッピーだなと感じた。でも、どうしても、男女として一緒になれなかったことが悲しい、と思った。
最後微笑みあうシーンがあったのも、「よかったな」というより切なくてたまらなかった。叶わなかった恋だ、と思った。人並みに恋したわたしの小さな恋たちがいくつも胸の中を駆け巡ったくらいだ。
ところが一緒に観た友達は「いや、あれはあれでハッピーエンドだとわたしは思った!」と言った。「わかるよ、わかる。夢を叶えてそれぞれハッピーになったのはよかったよ、でも恋愛関係としては叶わなかったじゃない」
「うん、でもそれも一つ幸せの形じゃない?」
頭をガツンと殴られたような気持ちだった。お互い好意を持っていて恋愛関係が成立しなくても幸せな関係なんてあるのか?しかも長く一緒に過ごした仲だ。お店のロゴが彼女が考えたものだったり、思い出の曲を弾いたところ、こうだったらいいのにな、の走馬灯のようなミュージカルの演出、すべてに涙が出た。
映画を観た直後はその友達とゆっくり話す時間がなくそのまま帰路につき、わたしは一人でララランドについて考えていた。
そこで自覚したのは、己の稚拙な恋愛脳だ。
「愛」は男女の恋愛が成立したときにそこにあるもの、と思っていたんだと、その他のたくさんの愛の形をわたしは無視していたんだと思った。家族愛や、友人愛や、いろんな愛の形があるはずなのに。
ララランドを観て炙り出されたのは、観る人が「愛をどう捉えているか」なのかもしれない。
愛を男女の恋愛の上に成立するものだとわたしが思い込んでいたのは、今までの恋愛遍歴にあった。
好きな人に「異性として見られない」「付き合うのは考えられない」と振られるとき、必ずわたしに付け足される言葉があった。「でも君の描く絵やつくるものは好きだから、これからも友達としてよろしくね」という言葉だ。
わたしは複雑だった。もちろん、つくることが大好きだしそれで生きているしプライドも持っているからそれを褒められるのは嬉しい。でも今は恋愛の話をしているのだ。そんな付け足すように褒めて欲しくなかったし、わたしはその人が欲しいと言っていて、今この場でその言葉は求めていないのだ。わたしは女性として周りとたくさん自分を比べ、コンプレックスをたくさん持ってきた。わたしよりかわいい女性も素敵な女性もたくさんいる。でもまさか自分の作品に負けるなんて思っていなかった。そんなことなら描くのをやめてしまおうかと、失恋で荒れて思ったことも数知れない。
ララランドの二人の恋愛は叶わなかった。でもお互いを承認し続け、才能を信じ合って過ごした過去がある。二人が尊敬し合っていたのも分かる。そして友達の「それも一つの幸せの形」という言葉。
そこで思い至る。今になって思うことではあるが、過去の好きだった人がわたしの絵やつくるものが好きだと、言わば尊敬していると言ってくれたのも、ある種の愛だったのかもしれないと。
とてもとても大好きな人がいた。でも、その人との恋は叶わなかった。けれど、その人は人間としてのわたしや、クリエイターとしてのわたしを認めてくれた。友達としてでも関係が続く。友達の関係の中にも愛はある。中には、関係が途絶えてしまった人も当然いたし、この先一生人生が交わらない人もいるだろう。
それでも、尊敬という愛の形、友達という愛の形、離れるという愛の形、恋愛をしないという愛の形、いろんな愛の形があるから悲しまなくてもいいのだ、と思えた。そして、運命が交わる人なら一時離れても必ず会える。「縁があれば、またつながる」というのはわたしの好きな言葉のひとつだ。
たとえば、愛について。あなたはどんなことを思いますか?
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