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「伊藤」という姓を名乗る意味と言葉の分厚さを実感した日(23.8.27)

祖父が7月中旬に亡くなり、葬儀の時に感じたことをずっと言葉にしたかったけどできてなく、ようやくその気になりました。

それでは、今日もツラツラと書いていきまっす!
祖父の葬儀で感じた内容ですが、2章に分かれる気がするので、区切っていこうと思います。
まずは、伊藤の姓を名乗る意味について

伊藤の姓を名乗る意味

改めてですが、私は三姉妹の末っ子。
「伊藤」妃芽香です。
長女は早くにお嫁に行き、既に伊藤の姓ではありません。

伊藤家を続けていくには、私か次女が伊藤を名乗り続ける必要があります。
(母方の家系が代々続いていた家系で小さい頃からよく話題に出ていたので、「姓を名乗る」ということに昔からちょっとは意識がありました)

そんなことは長女が結婚してお嫁にいった瞬間から理解していたことではありましたが、祖父の葬儀の時に本当に強く強く実感をしました。

葬儀の時、椅子に座る時に身内から座っていきますが、1番に名前を呼ばれたのは喪主である私の父。その次は喪主の妻である私の母。その次は故人の妻である私の祖母。

ここまでは想定できますが、その次に呼ばれたのが、伊藤を名乗る次女と私でした。
父親の姉や妹ではなく、私たちが親族としては1番近い人でした。

葬儀場から出る時に遺影などを運ぶのも我々姉妹でした。
この瞬間に「伊藤なんだ」って思いました。

「伊藤なんだ」って思った中で沢山思うことはありましたが、パッと思いつくのはこんな感じ。

・祖父の兄弟が沢山いてこの人たちがいるから自分がいること
・父親の姉や妹が持つ意思に対して自分たちに許可を取られていること
・自分たちの選択で伊藤を続けられるかどうかが変わるということ

一瞬にして沢山のことを感じました。
今まで何も考えていなかったからこそ、とっても心にズシン、ときました。

だからと言って、自分の人生の選択で「伊藤」を守るために何かを選択することはありませんが、“選択肢の1つとして“「伊藤を名乗る」ということが出てきた気がします。
#この先の人生自分でも分かりませんが笑

寂しくもありましたが、伊藤を名乗っている意味を実感した日でもありました。
代々続く姓って結構奥深いんだなぁ、を肌で感じた日として残しておきます。
#人生の学び

言葉の分厚さ

葬儀で感じたことその2の章です。笑

「孫たちから祖父に言葉を贈る。」という時間がありました。

そこは孫代表として祖父と1番長く過ごしてきた長女(私の姉)が代表して話をすることになりました。
(私が幼稚園の時に祖父祖母とは別れて住むようになったので私は5年くらいしか一緒に暮らしていませんでした)

孫から総意の話は出し、その他は長女と祖父の話題がメイン。
その手紙が身内贔屓ではなく、とってもとっても良いものでした。
4年前に1歳半で天国にいった息子(長女の息子)がいて、それを経験し今では前を向いて生きているからこその言葉と、気づくポイント。
なにより1つ1つの言葉選びが本当に素敵でした。
そしてその言葉が本当に優しくて温かかった。

この人には、我々が生きている世界(身体がある世界)と死の世界(身体がない世界)がとってもクリアに見えているんだろうな〜。なんて感じてしまいました。
その場に身体がない悲しさと寂しさ、尊さを知っているからこそ言える言葉のその言葉の重み。

それを感じられる言葉でとってもとっても心に響きました。
(姉の息子(私からしたら甥)の死を間近で見ているからこそ感じたことかもしれないけど。)

姉ながら、私もこんなにも優しくて温かい言葉を発せられるような厚みのある人になりたいと思いました。

苦しかったり困難からはできるだけ避けたい。
でも今あるベストを尽くしながらも目の前にやってくる困難は、厚みのある人間にしてくれる材料だと思って、1つ1つベストを尽くしながら前に進んでいきたいものです。

苦しさや困難が目の前にある時に余裕はないから、常に『何事も真正面から向き合う』を合言葉に生きていきたいな、と思います。

なんの学びでもない日記会でした!
最後まで読んでくれたあなた。
ありがとうございました!😊

一緒にどこかで語りましょう。

明日から始まる(もしかしたら今日から始まっている?)1週間、頑張りましょう!!

それではまたー!!

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