愛知トリエンナーレ③

先日あいちトリエンナーレが幕を閉じました。まず、多くの関係者の皆様、会期終日まで運営いただきありがとうございました。お陰で素晴らしいアートの数々を鑑賞することができました。一来場者として感謝申し上げます。

-補助金不交付はなにを意味するか?

さて、会期終了後もまだまだ議論が絶えないあいちトリエンナーレですが、私はこの文章をもってあいちトリエンナーレに関する言及を一度終わりにします。

最後に補助金不交付など一連の状況について1つだけパラメータを用意したいです。

それは二項対立と二律背反です。

この2つの言葉ですが、混同して使われることが多いように思います。しかし、これは今回のトリエンナーレについて重要な差異を抱えている言葉だと思います。

まず、二律背反ですが、これはテーゼとアンチテーゼが対等に扱われている状況を指します。パラドクスと呼ばれることもあるこの言葉。
つまりどういうことか、世界にはどちらも正しいのに互いに矛盾してしまう論題が存在します。カント的に言えば
①「世界や時間は無限に広がっている」
ということと、
②「世界や時間には始まりがある」(ということは有限である)
という2つの矛盾する真理があります。
二律背反とはこのような状態のことで例えば今回のトリエンナーレでは
「天皇の写真を燃やす」という表現に対して(今回は)いくつかのの見方ができると思います。
①天皇を侮辱している
②戦争を起こした天皇であり、戦争の記憶を継承する
③…
④…,…
などなど、正しいかはさておき、天皇の写真を燃やすことについて意見することはそれが互いに矛盾していようと平等に扱われるのではないでしょうか?

しかし、ここで「あの展示をやめなければ会場を爆破する」などと誰かが言ったとすると、平等に扱われている状態は崩れ、二項対立に陥ります。

つまり、二項対立は意見が平等に扱われない点で二律背反とは差異があります。さらに多様だった意見は展示に①賛成か②反対かという2つの意見に抽象化されます。(無論、爆破されるということは命に関わる問題なので、展示をやめざるを得ません。)

ボクシングの試合に拳銃を持ち込むようなものです。

これはアンフェアであり、アートに対する多様な意見は失われるでしょう。

そして補助金不交付もこの状況においては二項対立を生みます。「補助金が交付されないと続けられないアートなどやめてしまえ」という意見があるようですが、

そのような雑な解釈は様々なものを見落とします。

まずそもそも一度交付すると言った補助金を無しにしますと後出しできることはシステムとして正常なのでしょうか?(しかも、補助金の委員の方々は会場に足を運んでいないそうです。)
一度言ったことをやっぱり無しです、と平気で覆す人たちをどうやって信用すればよいのでしょうか?

そのような人たちが税金の使い道を握っていることの方が怖くないですか?

長くなってしまいましたが、とにかくフェアにやることから逃げてはいけない。みんな争いは望んでいないのだから、

対立しない落とし所を探ることを怠ってはいけないのだろうと思います。

※綺麗事だと思う人は他の解決策を教えてください。

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