理数モデルという文学

また、コロナウイルス関連です。
私はゲンロンの東浩紀さんの著作の愛読者です。発売される新書はすかさチェックするし、東さんの周りでどのような議論が起きてるのかにもとても興味があります。

今回はBLOGOSの「ネットの存在が思考停止を引き起こした」東浩紀が新型コロナ時代に考える人文知の価値 ​という記事の感想を書きます。

https://lite.blogos.com/article/459219/
記事リンク

この記事を簡単に要約すると
「コロナ禍において人々は社会という実態の分かりにくいものを理数モデルによって分析し、それを信じた。しかし、実際には社会は数値で推し量れるような単純なものではない上に、zoomやUber eatsで全てが事足りると錯覚し、社会をどう保つかを考えることを忘れた。」ということだと解釈しました。

記事はユダヤ教の指導者の葬式がニューヨーク市長によって弾圧されたことなどの事実に基づいて書かれており、批判の矛先はそれらをコロナだから、と理解して何も疑わない市民へと向けられています。
後半にはそれらが人文知がメルクマークが見えにくい特性によってむしろ理数モデルを信じすぎている、というところまで言及しています。

東さんが言いたいのは数字ばかり信じずにもっと歴史や文学から学べることあるよね?数字で推し量った社会は仮想であり、実態はもっと違う形をしているよ、ということだと思います。

私もそう思います。しかし、私は市民が信じたのは理数モデルという文学なのではないかと思います。これはポストモダンの大きな物語を信じた社会にすごく似ているのではないかと思います。自らの命が危険に晒され(実際には晒されているかは分からない)て不安な時に私たちは数字のような分かりやすい根拠(とよべるもの)を信じたいと思う。それが実態かどうかは二の次である、というのが本音なのではないかと思います。

私たちは数字という物語を信じることにした、信じるしかなったということが今回起こっていることで、昔だったらそれが指導者の前向きな演説やオカルトだったのだろうと思います。大きな物語が崩壊し、阪神淡路大震災が起こったころにもオウム真理教というオカルトが大きな力を持った時のように今私たちは不安に晒されている。そしてその不安をラディカルに捉え直し考えるきっかけを生むものが哲学をはじめとする人文知だと思うのですが、残念ながら大きな物語的文学に変換された理数モデルを信じることとなっていることははっきり言ってよくない、ということを感じました。

民主主義のような膨大な数の有権者をコントロールするには数字の分かりやすさは非常に効果を発揮するでしょう。反対に人文知のような理解に時間のかかるものは淘汰されるのが現実。私は理系出身者だけれども、そういうカテゴライズを超えて人文知を信じたいと改めて思った。

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