ポストコロナとかウィズコロナとか、本当に何か変わるのだろうか?

コロナウイルスのパンデミックによって世界の状況は大きく変わりました。私たち日本人は政府から自粛を要請され、これまでの日常に自ら制約を与えなければならなくなりました。仕事や育児は家庭に集約され、住宅から都市へと移行した様々な機能は再び住宅へと戻ることになりました。しかし、家族構成も住宅のあり方も前の状態のままで、そこに齟齬が起きるという問題も起こっています。

そこで私は時間について考えたい。住宅を含む建築はこのような急に襲ってくる生活様式の変化に耐えることができない。安藤忠雄は「住むことは時に過酷である」と言った。おそらく安藤忠雄の意図とは違う形であるだろうが、まさに今住むことが困難になっている。

今まで家で料理をすることがなく、キッチンの狭い家を選んだ一人暮らしの人々は食事を制限され、オフィスで仕事をしてきた人々は自宅に仕事部屋を作る必要が出てきた。しかし、むろんそんなスペースはない。

そして、このパンデミックに対応する形で生まれた新たな空間もウイルスが去ると同時に必要なくなる。それが来月か来年かは分からないがいずれにせよ建築の時間軸とは大きく乖離する。

私は建築を設計する仕事をしているが、いつも時間についての意識はある。今回のような社会の変化は容易に想像できるため、あまり設計しすぎない余剰のある建築が良いと思っていた。しかし、仮にそのような余剰があったとしても住み手はストレスを抱えながら生活するほかないということがよく分かってきた。やはり建築はユーザーエンドの商品なのだろうか?

だから私は歴史を当たってみた。すると、今のところこのような変化に耐えた建築は何一つとしてない。いつの時代もユーザーがその時々に判断し、変化することで対応してきた。ストレスなく建築を使いこなすことなどできないのだろう。

つまり、私はこの文章を書きながら何も分かっていない。しかし、形而下学的に物質化する空間、あるいは建築というものはあまりに大きくあまりに動かない。そしてそれは今はネガティブな方向に働いているが、今後変えていくべきとも思わないのだ。なぜなら動かないことが建築のある種の可能性だから。

それは設計者にも同じことが言える。たしかにコロナウイルスは恐ろしいものであり確実に社会の仕組みを変えている。しかし、この短スパンの変化で建築が大きく変わるという大げさな革命主義を謳う論者を私は信用することができない。産業革命からまだ100年ちょっとしか経っていない。歴史はほんの少しずつの変化を繰り返しながらだんだんと進んでいくのだ。その普遍性に耐えられない前衛はもはや置いていかれているのだろう。

考えてみればこのような混乱は数十年に一回起こる。地震の多い日本では特に顕著であり、遡れば前回は2011年東日本大震災、2007年リーマンショック、1995年阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件など幾度となく混乱に見舞われてきた。中でも東日本大震災は衝撃的な出来事だったことは間違いない。しかし、振り返ってみればあれをきっかけに何か大きく変わったことはあっただろうか?

むろん、小さな変化はあったものの、社会の大部分が復興へと向かい日常を取り戻した。日常とは偉大なもので奪われれば血眼で取り戻そうとしたくなるほどかけがえのないものである。様々な論者が煽るように説き放つポストコロナの世界観やウィズコロナの世界観は幻想なのではないだろうか。コロナウイルスが治れば私たちはまた以前と同じ生活を取り戻そうとする。惰性でテレワークを続けることなどありえない。むしろ、人と会うことの大切さを再認識する。過切断の世界から過接続の世界へと移行したのち、以前の世界へと回帰するのだろう。

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