三島事件とその周辺

私は三島由紀夫の熱心なファンである、

三島については、10代からその魅力に目覚め

以後、その著作から事件についての本や雑誌、インターネットやテレビ

など、諸々のマスメディアの情報から三島関連の情報を取得し

勿論、三島の著作についても10代の頃書かれた短編小説から、

最後の長編、天人五衰まで読み漁って来た

今回、その集大成として、自分なりに集めた情報を基に

最後の事件やその周辺に居た人物、三島の文学についても

余すところなく書き尽くしてみたいと思っている


昭和42年秋、三島は自衛隊への体験入隊(当初はボディビルで鍛えた自らの肉体が何処まで通用するのか試すのが目的)から帰宅して、初めて

当時サンデー毎日の記者であった徳岡孝夫に会う

徳岡の手記によれば、その夜、三島は実に上機嫌であり

まるで遠足から帰った子供のようで誰かに自分の体験入隊の話をしたくて仕方が無いと言った風であったという

30代前半から始めたボディビルで鍛え上げた肉体の成果と更なる飛躍の為に体験入隊したのが最初であったらしい

富士山麓で行われた訓練に耐えることに成功した三島は

その夜、後に遺書を託すことになる徳岡に始め会い

徳岡によれば、実に楽しそうに笑い、時には笑い転げんばかりの有頂天ぶりであったという

徳岡の最初の印象としては「孤独な人なんだなあ」といったもので

徳岡の方からも自衛隊の憲法改正の必要性について問うた処

三島は「僕はそう言う風には考えていません」

と言っていたという

事件の12年前に結婚式を挙げた瑤子婦人については

当時から三島の体験入隊や後に結成する事になる楯の会の活動についても

積極的に協力し、三島よりもむしろ天皇制や神道に詳しかった

事件から何年もたってから(瑤子婦人が無くなったあと)

楯の会の元隊員の一人が「自分は当時むしろ、先生の方が奥様から神道についてなどの影響を受けているんじゃないかと思っていましたよ」と述解している

また当時の女性としては珍しく大学卒で三島の好みに合致する面立ちをしていたそうである

三島の体験入隊の際についても、準自衛官という責務を与えられた三島の

訓練先である富士山麓まで寿司などの差し入れをもち自ら車を運転し

白い上下のスーツにミニスカートで現れ

訓練の苦しい場面で三島が挫折しそうになっても

「あなた、頑張りなさい」という言葉を投げかけるような人となりだったらしい

三島の楯の会の活動についても協力的で楯の会の隊員たちを自宅に招き手料理を振る舞ったりすると言った姉御肌タイプの女性だったらしい

三島自決後、1977年3月に経団連ビルに元楯の会隊員らと、当時、憂国道志会の野村秀介を含む計4名が拳銃に猟銃、日本刀を携えて職員12名を人質にとって立て籠もった事件にさいしても

事件を聞きつけた瑤子婦人が経団連ビルに向かい階下から4人に向け電話をかけ「三島です。あなた伊藤さんでしょ。何をやっているのよ。」「今から行きますからね」といって上階に向かい、ドア越しに「開けなさい」と説得したところ、三島を強く尊敬していた4名はその説得に応じ12時間の立て籠もりの後、あっさり投降したというエピソードから見てもその人となりを窺がい知ることができる

三島についてはあの演説が余りにも有名ですが

あれは10か月以上前から計画があった中で

4日前に急遽決めたもの

だから、それ程檄文に書かれている以外の事は言っていない

最初は、5人のメンバーがひとりずつ名乗りを上げて

という計画だったようだ

バルコニーに立った三島に対して隊員たちも段々激してきて

野次や怒号が飛び交う中三島の「静聴せい」「静かにせい」

「お前ら聴け!聴け!男一匹、いのちをかけて叫んでいるんだぞ」

と言うやり取りの中での約8分間の演説であった

演説の最後尾で「君たちには解らない」

「これで俺の自衛隊に対する夢が無くなったんだ」

といって壇上から下りたらしい


三島由紀夫については一番不思議に思うのは

自分が兵役に落ちて戦争に行かなかったのにも関わらず

うしろめたさを感じていない点、これが不思議だ

三島さんのように真剣にものを考える人がだ


結局、ボディビルを始めたのが失敗だったんだろう

肉体を改造して自分が美しいと心底陶酔仕切ってしまった

これが失敗、美輪明宏さんにからかわれたので怒ってと言われている


文学的には結局その、現実と空想の区別が無くなってしまったようだ

第3巻を書き終えて「小説とは何か」という評論の中で正直に

告白している


森田必勝と天皇陛下万歳三唱後(これについては、写真を見たことがある)

ちょっと、正気の人間の顔ではなかった)

「あまり聴こえなかったようだな」

「自分は仕方が無くなったんだ」

と誰にともなく呟いたそうだ

高級腕時計を外して古賀浩康に

「やるよ」と一言

そして気合込めて「たーっ」と

腹に短刀を突き立てた

その声については当時の現場監督だった

警察庁の警察署長が聴いている


この際、三島の切腹は余り上手くいかなかったようだ

検分で遺体を解剖したところ

腹膜の切り口がかなり深く、舌をかんだ跡があったらしい

恐らく、深く切り過ぎて首が下を向かなかったようで、

ぴんと立ったような状態になっていたと想像される

通常一刀に断じる所を、三島の場合は最終的に押切の様な感じになった

らしい

一太刀、二太刀で上手く首を斬り落とせずとても苦しかったようである

三島の切腹の跡に森田必勝が解釈してその後自分も腹を切ると

こういう算段だったらしい

森田に関しては古賀が一刀に断じている

事件を知り現場に駆け付けたのは

川端康成、石原慎太郎、佐々淳行この3人だったようだ

殊に、川端の落胆は大きく非常に寂しそうに帰路についたそうである


三島の死後、様々な議論が巻き起こった中で

一人沈黙を保っていた人物がいる

澁澤龍彦だ

この事に池田万寿夫が腹を立て

どうして三島について語らないのかというような段で切り込んだらしい井

が澁澤龍彦は「三島は俺の友達だ」と言ってそれを拒否したらしい

澁澤が海外に旅立つ時に三島は楯の会の服装で見送りに来たらしい

それが二人の別れだった訳だが

胴体から切り離された首については

当時警察庁の方にも三島に好意的な人物が多く

しっかり縫合して、遺族のもとへ帰したらしい


自決の前日、三島は隣に住んでいる両親のもとを訪ねている

「何だか僕は、とっても疲れてしまったみたいなんだ」

父の威一郎が「煙草の量を減らすわけにはいかないのか」

というようなやり取りがあったらしい

まさか、翌日にそんなことが起こるとは夢にも思っていなかった

三島の死については、森田必勝が「先生、死にましょう」というような

ことを言って誘ったのではないかという説が根強い

そうすると、森田も一緒に死んでいる事に説明が付く


三島の死後の反応としては

北王子欣也が「道理でライ王のテラスの時に、先生が拳の位置にこだわったのが理解できました」

美輪明宏は「驚いたが、ついにやったか」という思いが強かったらしい

一瞬にして髪の毛が全て白髪になってしまったと言われているが

真偽は定かではない

川端康成については特にその落胆ぶりが、激しかったようである

石原慎太郎はその当時の事を著書「三島由紀夫の日蝕」「国家なる幻影」の中で詳述している

※この文章については未だ作成中であります

三島については余りにも私が持ち得ている情報が膨大で

機会を見ては書き足していくと言った処です

完成まであとどのくらいかかるか解りませんが

一度この記事を読まれた方もまた少し経ってみてみれば

内容が追加されている筈です

また完全に原稿が上がったら、アメブロの方にも

記事をアップする予定です

※アメブロも同じアカウント名でやっています