『法の哲学』の「理性国家」と環境問題

 現在、グローバルな環境に及ぶ人間の活動が地球システムに及ぼす影響が、自然の諸力に匹敵するようになっている。地球の有限性は資源の枯渇、環境の変化、動植物の絶滅など、ありとあらゆるところで示されている(地球温暖化や気候変動のように、人間の活動と環境変化の因果関係に様々な意見があるものにあえて触れる必要はなく、確実に影響を及ぼせる例があることが重要である)。そして、その影響が人口に比例するなら、増大するのは確実である。無限と思われた豊かな自然は、有限の守るべきエコロジーに変わった。

 これを哲学が考える意義は大きいと考える。ロックが「自然に、所有物たる身体を作用させ(労働)、自然を所有物に変える」というモデルを提示し、マルクスにいたってはこれを人間が人間たる条件と見なした。そして、身体の所有から身体的自由を認めていったように、所有は自由にとって重要な概念である(ルソーやマルクスは私的所有に人類の失敗の原因を求めたが)。個人の自由は他者の自由と衝突することで争いが生まれ、人類は覇権の原理に支配された。この財の希少性による普遍闘争状態(ホッブズ)は覇権の必要性を示し、人類は暴力によって自由を奪われた状態で一時的な平和を享受することが可能になった。人類はこれに変わる原理として、一般意志を正当化することで暴力を捨てることを考えた(ルソー)。そして革命的にこれを行うのではなく、お互いの自由を承認していく形で漸次的に実現できることが示された(ヘーゲル)。

 私は、今人類が直面している問題はまさしくこの議論の射程であると考える。労働・生産は自然を無限・絶対的なもの見なして、そこから得られる所有物の間での自由を議論してきたが、自然がエコロジーに変わることはこの自然自体に希少性が現れることであり、根本的に生産は他者の自由を侵害し、普遍闘争状態を導く。地球の有限性に対処する論理は、資本主義が持っていないのはもちろん、低減させた未来世代の功利を組み込んだ功利主義を考えても、無知のヴェールで未来世代への貯蓄と現在世代の福祉を天秤にかけても、歯止めになるかどうか、どのみちジリ貧にしかならないように思われる。労働・生産の段階で自然の有限性を組み込み、他者との間ではなく、まず自然に対して理性的に向き合うにはどうすればよいだろうか。歴史上、資源立国が資本主義の勢いを止められずに資源の枯渇と同時に貧困に喘いだ数多くの例を見ると、少なくとも国連がキャンペーンを張るだけでは同じ轍を踏むように思われる。原理的な解決策が要求されているだろう。

 私は、この原理について、ヘーゲル国家論における「理性国家」が実現されていないことに遡れると考える(むしろ、その後ポストモダンにいたるまで、その構造を様々なレトリックで指摘したとしても、ルソー・ヘーゲルの近代国家やマルクス・レーニンの実験のように現実に有効な原理はなかったのではないか)。ここから、「理性国家」が実現していないことを見ていき、ヘーゲル国家論におけて現在と「理性国家」を位置付け、そこから示唆を得たい。

 マルクスはヘーゲル国家論を、宗教に次ぐ幻想的共同体による階級支配の最終形態として批判した。ここにおいて国家は「自由の現実化」などではなく、むしろ私的所有を正当化することで階級支配を維持する装置として捉えられる。しかし、マルクスの目的が個人の自由の解放なのであれば、それはヘーゲルと共有されている。「しかし、これは依然としてなお必然性の国である。この国の彼方に、自己目的として行為しうる人間の力の発展が、真の自由の国が、といってもかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ開花しうる自由の国が、始まる。労働日の短縮は根本条件である。」(マルクス『資本論』)ゆえに、マルクスの批判はヘーゲル国家論の「理想」に向けられたものというより、ヘーゲルが総括した形で生まれた近代国家の「現状」に対するものとして捉えるのがよいだろう。私的所有は肯定した上で、現状がヘーゲルの描いた国家(「理性国家」)になっていないのなら、ヘーゲルの理論上で現在はどの位置に位置付けられるのかを検討したい。

 ヘーゲルにおいて意志の「自由」とは自らを無限に普遍化させる意志である。これと比較して、例えばアダム・スミスにおける自己利益の追求は、一般的には「自由」と解釈されるかもしれないが、ヘーゲルにおいてこれは意志の普遍的な面に対して規定される「主観的欲求」であり、主観的欲求の目的は主観的特殊性を満足させることである(「国家経済学は、これらの観点から出発する」(ヘーゲル『法の哲学II』p.104))。そしてこれらの合一を目指す訳であるが、社会契約により一般意志を形成しただけの「市民社会」においては、合一はなされない。ここが「見えない手」によって普遍的資本が増大することを強調するスミスとの違いと言えるかもしれない。「利己的目的は、おのれを実現するにあたってこのように普遍性によって制約されているために、全面的依存性の体系を設立する。(略)この体系はさしあたり外的国家、ー強制国家および悟性国家とみなすことができる。」(ヘーゲル『法の哲学II』p.91)「だが彼(ルソー)は、意志をただ個別的意志という特定の形式において捉えただけであり〔のちにフィヒテもそうしたように〕、そして普遍的意志を、意志の即自かつ対自的に理性的なものとしてではなく、ただ意識された意志としてこの個別的意志から出てくる共同的なものとして捉えたにすぎない。それだから国家における個々人の合一は契約となり、したがって個々人の恣意や意見や任意の明白な同意を基礎とするところのものとなるのであって、その結果さらに、即自かつ対自的に存在する神的なものとその絶対権威と尊厳とを破壊するところの、たんに悟性的な、その他もろもろの帰結が出てくるのである。」(ヘーゲル『法の哲学II』pp.219-220)ここではこれを「悟性国家」と呼んで話を進めたい。ヘーゲルは、この市民社会たる「悟性国家」において、主観的欲求は多様化・種別化し、また限界がないことを指摘している。これは現在の資本主義が孕んだ諸問題を原理的に示していると考えられる。「もろもろの欲求や手段や享楽をとめどなく多様化し種別化する社会的趨勢には、自然的欲求と文化的欲求との差異と同じように、限界がない。」(ヘーゲル『法の哲学II』p.114)「他方、欲求の満足は限りなく新しい欲求をよびおこすが、その満足はいたるところで外的偶然性と恣意によって左右されており、また普遍性の威力によっても制限されているから、必然的欲求の満足も偶発的欲求の満足も偶然的である。市民社会はこうした対立諸関係とその縺れ合いにおいて、放埓な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す。」(ヘーゲル『法の哲学II』p.95)

 そしてヘーゲルは国家(ここでは「理性国家」と呼ぶ)を、普遍性に基づく理性的な国家とだとしている。これは明らかに「悟性国家」から進展している。そして、「理性国家」の中では、個人は「自由」なのである。ここでの「自由」が一般的な意味ではなく「自らを無限に普遍化させる意志」なのである。だから、国家が普遍性に基づいていれば、自由な個人の意志と一致する。ここに主観的特殊性・個別性と客観的普遍性との合一がはかられている。「国家は、実体的意志の現実性であり、この現実性を、国家的普遍性にまで高められた特殊的自己意識のうちにもっているから、即自かつ対自的に理性的なものである。(略)国家が市民社会ととりちがえられ、国家の使命が所有と人格的自由との安全と保護にあるときめられるならば、個々人としての個々人の利益が彼らの合一の究極目的であるということになり、このことからまた、国家の成員であることはなにか随意のことであるという結論が出てくる。しかし、国家の個人に対する関係とはこれとはぜんぜん別のものである。国家は客観的精神なのであるから、個人自身が客観性、真理性、倫理性をもつのは、彼が国家の一員であるときだけである。合一そのものがそれ自身、諸個人の真実の内容であり、目的であって、諸個人の使命は普遍的生活を営むことにある。だから彼らのその他の特殊的な満足や活動やふるまい方は、この実体的にして普遍妥当的なものを起点とし、成果とする。理性的であるということは、抽象的に考察すると、総じて普遍性と個別性とが相互に浸透しあって一体をなしているということである。これを国家に即して具体的にいえば、内容の上では、客観的自由〔すなわち普遍的実体的意志〕と主体的自由〔すなわち個人的な知と特殊的諸目的を求める個人的な意志〕とが一体をなしていることであり、ーそれゆえ形式の上では、行動が思惟された法則および原理によって、すなわち普遍的な法則および原則によって規定されるということである。ーこの理念こそ、精神の、即自かつ対自的に必然的な存在である。」(ヘーゲル『法の哲学II』pp.217-218)「不完全な国家とは、国家の理念がまだおおい隠されていて、この理念の特殊的諸規定が自由な自立性に達していない国家のことである。(略)近代国家の本質は、普遍的なものが、特殊性の十分な自由と諸個人の幸福とに結びつけられていなければならないということ、それゆえ家族と市民社会との利益が国家へ総括されなければならないということ、しかし目的の普遍性は、おのれの権利を保持せずにはおれないところの特殊性自身の知と意志のはたらきをぬきにしては前進することができないということ、この点にある。だから普遍的なものは実現されていなくてはならないが、他方、主体性も完全かつ活発に発展させられなくてはならない。この両契機が力強く存続することによってのみ、国家は分節されているとともに真に組織された国家とみなされうるのである。」(ヘーゲル『法の哲学II』p.235)
 ここで注意したいのは、国家と個人が一致することが「自由の阻害」ではないことである(ヘーゲルにおいては、むしろ全く逆でこれこそ「自由」なのである)。福祉が理性的であるからこそ納税の義務があるし、そのために”はたらく”のだから現実的である。マルクス以降の近代国家批判では、近代哲学の完成者たるヘーゲルの国家擁護論は批判されたが、あくまで国家によって抑圧されているのではなく、国家が普遍性を持つから自由な個人と一致するのである。最初に指摘したように、近代国家の現状が批判されうる状況だったとしても、ヘーゲルの哲学自体は階級支配の維持ではなく徹底的に個人の自由を擁護する立場である。「だから個人は、おのれの義務を履行することにおいて、なんらかの仕方で同時に、おのれ自身の利益、おのれの満足ないし埋め合わせを得なければならない。そして彼には、国家における彼の地位からして、普遍的なことがらをおのれ自身の特殊なことがらにする権利が与えられなければならない。まことに特殊的利益は無視されてはならず、まして抑圧されてはならないのである。それは普遍的なものと一致させられなくてはならないのであって、これによって特殊的利益そのものも、普遍的なものも、ともに維持されるのである。」(ヘーゲル『法の哲学II』p238)

 そして、私が主張したいのは次のようなことである。
1. 現在の国家は部分的には「悟性国家」なので、放埓な欲求の体系により人々も国家も理性的な判断ができない。
2. 環境問題において、重要なのは「理性国家」の実現であり、そのためには人々が普遍性(持続可能性)に意志を持つことと、国家の本質を普遍性に合わせることが必要である。
帰結はシンプルだが、示唆が多いと思われる。ヘーゲル批判における「自由」が単純であり、ともすれば「放埓な欲求の体系」を作り出すような「主観的欲求」を含むような概念だから「個人の自由と環境問題が対立する」ような絶望的な結論が出る。「自由」と「主観的欲求」を区別して環境問題を考えることが大切であり、理性的でない「主観的欲求」などを擁護していても行き着く先は「普遍闘争状態」なのである。そして、ここにおける「国家」は問題の規模を考えるとグローバルなものと考えていいだろう(授業では永久平和や国家による国家について考えたが、その視点で考えるのもいいかもしれない)。人類の理性的な結束が試されており、「グレタさん批判」などに興じている場合ではない。

(このnoteはレポートをちょっと改変したものです。せっかくなので保存版にと。)

参考文献:
ヘーゲル『法の哲学I』第5版 藤野渉・赤沢正敏(訳) 中央公論新社 2017

ヘーゲル『法の哲学II』第3版 藤野渉・赤沢正敏(訳) 中央公論新社 2011

竹田青嗣 『哲学は資本主義を変えられるか ーヘーゲル哲学再考』KADOKAWA 2016


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