見出し画像

モロカイ島のダミアン神父:Saint Damien of Molokai

観光客がにぎわうハワイは、陰ることのない常夏の楽園として世界中の旅行者を魅了している。

その楽園の一角――モロカイ島と呼ばれる小さな島の悲劇の歴史を知る者は少ない。そこには、不治の病に身体をむしばまれ、世から見捨てられた病人たちの絶望の日々があった。秒針は患者たちが生を終えるまでの時を刻み、日々登る朝陽は患者たちに死の瞬間がさらに一歩近づいたことを実感させた。

そのような死の島に1873年、一人のカトリック司祭が降り立った。ベルギー人聖職者ジョゼフ・ド・ヴォステル、ダミアン神父である。

1.生い立ち

 ダミアン神父ことジョゼフ・ド・ヴーステルは1840年、ベルギーはブラバンド州の小村トレメロで、7人兄弟の末っ子として生まれた。地元の小学校で初等教育を受けた後、南部の町ワロン(フランス語圏)の高等学校で教育を受けた。1859年、兄パンフィル(オーギュスト)の影響を受け、聖職者として生きる決意をし、イエズス・マリアの聖心会に入会した。パリ郊外の修練院でラテン語、ギリシア語を学んだ後、ルーヴェン・カトリック大学で哲学と神学を修めた。

 1861年、兄パンフィルは正式にカトリック司祭の叙階を受け、ハワイ諸島への布教活動に参加する決意を固めた。ところが、間もなくチフスに罹り、断念せざるを得なくなる。兄に代わってサンドウィッチ諸島への宣教に赴くことになったのがダミアン神父であった。

1)1864年当時のハワイ

 18世紀末にイングランドの探検家キャプテン・ジェームズ・クックがハワイ諸島を訪れたとき、原住民であるポリネシア族の人口はおよそ40万人であった。その後白人の入植が相次ぐと、梅毒、ハンセン病、結核など、西欧から新たな病が持ち込まれ、島民の多くが罹患した。その結果、人口は激減し、1846年には島民数およそ5万人であったとされる。
 ハワイの原住民の間では民間信仰が盛んであり、偶像崇拝、独自の祭儀や人肉食、多夫多妻制が守られていた。クックは人肉祭儀の犠牲者であったと言われる。初期のキリスト教の宣教活動は困難を極めたが、ダミアン神父がハワイに到着したころには、キリスト教教会の基盤が既に築かれており、ホノルルには大聖堂が建築され、教区も整えられていた。
 ダミアン神父の最初の赴任地ハワイ島プナは活火山キラウエア山麓にあり、キリスト教は未だ根付いていなかった。二つの聖堂の建築に着手したダミアンは、怪力の持ち主として島民から注目された。カトリック教徒の住民はダミアンを歓迎し、受洗希望者も多く教会を訪れたが、ハワイ島に古くから根ざす魔術や偶像崇拝は、ダミアン神父の司牧活動に影響を及ぼした。
ダミアン神父は宣教の難しさについて次のように述べる。

病人を見舞うのが私の役目です。彼らの言う医者とは、通常まじない師なので、私は、それと戦わなければなりません。病人が出ると、偶像崇拝が今でもあとをたたず、病気は何かのたたりと考えられています。こういう迷信を打破するのは非常に困難ですが、私は説教に努め、病人に対しては監視を厳しくしているので、亡くなる信徒は、ほとんどの者が迷信にひかれずによい最期をとげます。臨終には、ほとんどが終油の秘跡を喜んで受けます。

小田部胤明『ダミアン神父――救ハンセン病の使徒』東京:中央出版社、1993年、74頁。

2)モロカイ島の隔離施設について

モロカイ島は観光地として人気のあるマウイ島とオアフ島の間に位置する小さな島である。ハワイ州観光局の情報サイトには、全長61㎞、幅は広いところで16㎞。北東の海岸には高さ1,100~1,200mもの世界最大の崖がそびえ、南部の沖合にはハワイ最長のサンゴ礁が約45㎞に渡って広がる、と記されている 。ハンセン病患者の隔離地はモロカイ島北部のカラウパパ半島にあり、崖の麓に位置した。この地区は現在「カラウパパ国立歴史公園」として開放されている。絶景を楽しむことのできる人気観光スポットの一つであり、その一角にはダミアン神父の時代の教会や隔離施設跡が保存されている。

1870年代当時、隔離地の患者たちの生活環境は劣悪であり、重症者は床に重なるように横たわり、治療の手立てもなく、ただ死を待つばかりとなっていた。比較的初期の患者たちは自給自足によって生活していたが、不治の病を宿す患者たちの労働力は低く、実際、不衛生を極める隔離施設に閉じ込められたも同然であった。
カトリック、プロテスタントのキリスト教教会は患者たちの救済に努めたが、教会建設のための資材すら容易に手に入らない状況において、活動は難航した。1873年4月15日、ヌホウ新聞が以下の社説を載せている。

これらの不幸薄命な病人を救うため、もしキリスト教の教師、司祭あるいは修道女のうちから、だれか身を犠牲にする覚悟で島に渡る者がひとりでも出てくれるならば、その人は、人類愛の王座に永遠に輝く者となるであろう。

同署、96頁。

 

2.モロカイ島でのダミアン神父の仕事

 

 身一つでモロカイ島を訪れたダミアン神父は、患者の生活の世話をする傍ら、自らの生活の基盤を確立させなければならなかった。当時、コロニーの患者数はおよそ800名。医師、看護師はおらず、患者の妻が看護師の役割を担っていた。療養施設とは言ってもそれらは単なる小屋であり、医薬品や水、生活用品にも事欠いていた。コロニーに降り立ったダミアン神父は、即座に状況の改善へ向けて行動を起こした。

1)生活面の改善へ向けて

 

  •  水道:モロカイ島には水路が整備されておらず、島民は清潔な水を手に入れることはほぼ不可能な状況にあった。ダミアン神父は原生林の奥に水源を見つけ、ホノルルの衛生局と交渉してパイプを入手し、水道を建設した。

  •  孤児院:患者の中には罹患し、親元を離れて一人でモロカイ島に移送されてきた大勢の子供がいた。ダミアン神父は孤児院を設置し、子供たちに聖歌や楽器の奏法、読み書きなどを教えた。この子供たちは聖歌隊や音楽隊のメンバーとなり、教会活動において欠かせない存在となった。ダミアン神父はまた、孤児院と患者のために毎週肉や野菜の配給が円滑に行われるよう、政府と交渉し、約束を取り付けた。

  •  教会:モロカイ島には小さな聖堂があったが司祭は不在で、破風同然になっていた。ダミアン神父は聖堂の修繕を行い、ミサを再開した。この他、カラウパパ近郊に大聖堂を立て、同島の遠隔地に住む島民のためにも教会を建設するなどしている。ミサには多くの患者が集い、ダミアン神父は毎週10人ほどの患者に洗礼を授けた。

  •  居住区の整備:コロニーの居住者のために、ダミアン神父は自ら大工仕事に精を出し、2年間のうちに300棟もの小屋を建設した。これによって、患者たちの生活の質が向上した。

  •  埋葬方式の改善:モロカイ島のコロニーでは、患者が死亡すると毛布に包みそのまま土に埋めるというのが慣例となっていた。毎日死者が出るため、棺桶の生産が間に合わないためである。この埋葬方法は衛生上問題があり、死者の尊厳をも損なうものである。実際、墓地には遺体や遺骨がむき出しになっていたとされる。ダミアン神父は棺の製作を日課とし、死者を弔うための「葬式隊」を組織した。これによって不安な日々を送る患者たちの精神的な苦痛が軽減されたとされる。

1870年代のカラウパパのコロニー。ダミアン神父の姿も見られる。

 

2)ダミアン神父の見た患者と環境

 

①    患者の状態とダミアンの献身


 患者たちの生活環境の改善に努めたダミアン神父は、病の悪化した患者の症状に真摯に向き合い、患者たちの救済に努めた。ハンセン病は現代ではその原因が解明されており、有効な治療法が確立されているが、19世紀当時、その病は不治とされ、患者は病が悪化する中で絶望との戦いを強いられた。
 モロカイ島の患者たちの現状について、ダミアン神父は次のように述べる。

 ハンセン病は、今日の知識では不治です。はじめは血液が腐敗するようです。つぎに皮膚、とくにほほに、変色した斑点が現れます。冒された局部は感覚を失います。そして、身体の末端部がうみただれはじめ、肉は崩れ、悪臭を放ち、周囲の空気は毒気のようになります。私は、この空気に慣れるのに非常な苦労をしました。ある日曜のミサのとき、私は息がつまりそうで、ちょっと祭壇から抜け出して外の空気を吸いたくてたまらなくなりましたが、聖主がラザロの墓の石を、マリアが『もうにおいます』と申し上げたのにもかかわらず、取り除いて開くようお命じになったことを思い出して、がまんしました。今ではだいぶ慣れました。傷に虫がついて今にも死にそうな患者にゆるしの秘跡をさずけるとき、私は、いやなにおいに気づかずにいることもあります。また、手足の先が崩れ去った患者に病者の秘跡を授けるとき、どこに油を塗ったらよいか、途方にくれることもあります。
(……)8百人の病人の小屋のかたまった村を頭に描いてください。医者は一人もなし。実際、治る人は一人もいません。医者が来ても処置の施しようがないのです。

同書、158頁

  ダミアン神父は患者一人一人に向き合う中で、自身も戸惑いを覚えずにはいられなかった。そうした中で、信仰を新たにする心境を書き記した。

ダミアン神父の戸惑いと本音
聖体のうちにまします聖主からお恵みを得られなかったと仮定すれば、私はこの環境にはとても耐えられなかったでしょう。しかし、聖主が私のそばでお守りくださるので、私はいつも明るく、陽気な心で、不幸な患者の救済のために働けるのです。

同書、158 頁。

 

使者と共に信仰をあらたにする
私はここへ来てから毎年百九十人から二百人ほど葬りましたが、それでも患者の数は七百名を下りません。昨年は、特に多くのキリスト信者が死に見舞われ、聖堂は空きができた反面、お墓は掘る場所もないほどでした。(……)私は墓に行って、多くの霊魂がすでに味わいつつある永遠の福楽を黙想したり、ロザリオの珠を操るのが好きです。私が煉獄の苦しみに思いを巡らすのも、墓地です。兄さん、この墓地と、余命いくばくもない人々が横たわる病院とは、私にとって、自分の霊魂を救うためにも、他人に教えを説くためにも、最善の黙想書だと言えましょう。

同書、162頁。

②    悪癖の蔓延


 ダミアン神父はまた隔離施設内のモラルの低下と悪癖の蔓延した目を覆うような実態について記し、この悪のサイクルを何とか改善させようとする努力について述べる。

ここでは悪徳が横行し、徳は姿をひそめていた。新しい患者が島に来ると、古参の者は「ここは無法の地なり」という主義を吹き込むのだった。神のおきてと政府の法律をこれほど無視する行動に対し、私は身をもって戦わざるを得なかった。(……)不幸な多くの女性は、子供たちを育てていくために、売春婦にならざるを得なかった。彼女たちは、その病気に倒れれば、子供と共に捨てられ、また別のよりどころを探しに行かなければならない。時には家の外に放り出され、干乾しになって死んでしまったり、病院に投げ込まれたりしたのだった。
風紀の乱れる第2の原因は、飲酒であった。山腹には、原住民が「キー」と呼ぶ植物がはえており、その根を発行させ蒸留すると強い酒ができる。(……)この醸造は、広範囲に広まって、言語に絶する害悪を生んでいた。この酒の勢いで、住民は見栄も外聞もすべて忘れて、裸で飛び回り、狂態を演じるのだった。私は、おどしたり、すかしたり、説得に努めた結果、やっとその醸造をやめさせることができた。だが、長い間、彼らには女生と酒のほかは何もなかったのである。

同書、130頁。(現文ママ)

③    ゆるしの秘跡――島民のモラルを改善させるために


 日に日に進行する重い病を患い、隔離地に強制収容された人々が見出した者は、絶望と死への恐怖だけだった。ダミアン神父は、見捨てられたという絶望感から自暴自棄となり、その場しのぎの快楽におぼれる患者たちに生きる希望を与え、生活の質を向上させることが自分に課された使命であることを自覚していた。ダミアン神父は患者たちの心の友となり、聖書の教えを伝えた。ゆるしの秘跡は多くの患者に新たな希望の糧となった。

布教と宣教
死にそうな人が大勢いるので、私は司祭としてその責任を果たすため、彼らの住居を訪問する機会がしばしばあった。私はその患者に対していろいろ教えを述べたのであるが、私の言葉を耳にはさんで、他の罪人が自分のふしだらな生活を反省し始め、心を入れかえ、あわれみ深い救世主に頼って、その悪習をやめる、という例もずいぶんあった。[5]

同書、152 頁。

患者との対話
私は毎日、方法を変えなければなりません。あるときは、優しい言葉で慰め、別の時は、目を開こうとしない罪人に対し、厳しい態度を付け加えなければなりません。雷がときどき落ちるように、頑固な人には、恐ろしい罰を加えます。そのほうが効き目があることがしばしばです。

同書、153 頁。

洗礼と赦しの秘跡
この地の人々の改宗のため、絶えずお祈りください。この一年間、四、五十人の改宗者が出て、洗礼を授けることができたのも、皆さまのお祈りのおかげでしょう。私たちの祈りを神様に聞き届けていただくには、ゆるしの秘跡によって良心を清め、神をおそれて生活を改善するのが、最善の道です。

同書、87 頁。
 

 信仰が多くの患者に根付き始めると、隔離地内での不道徳は改善の方向に向かった。軽度の患者は聖堂の修繕や、患者の住居の建設作業に加わるようになり、日曜のミサには聖堂に入りきれないほどの人が集まった。ダミアン神父は患者たちにより人間的な生活をさせるために、売店を作り、生活必需品を自由に売買することのできる機構を整えた。

④    隔離地に対する差別


当時、「隔離地に入った者はそこから抜け出してはならない」という法律があり、その法はモロカイ島の司祭にも適用され、ハンセン病であるか否かにかかわらず、隔離地から島の他の地域に行くことさえ禁止されていた。その上、衛生局はハンセン病以外の者が隔離地に入ることを禁止し、援助物資を運搬する船員や船長、聖職者にも適応された。

生きている患者は八百人ほどで、その中にはカトリック信者も相当おります。司祭を一人おく必要が感じられていましたが、それは無理でした。なぜなら、他の島との交通が遮断されているので、ここにまわされる司祭は、生涯、病人とともにこの島に閉じ込められてしまうからです。

同書、124 頁。

 「イエズスとマリアの聖心会」ハワイ管区長がモロカイを訪れた際も島への上陸が許されず、逆に、ダミアン神父が管区長から赦しの秘跡をうけるために乗船することさえ許されなかった。そのため、ダミアン神父は汽船に横付けした小舟に立ち、甲板から身を乗り出す管区長に向かって大声で罪を告白せざるをえなかった。
 その後、フランス領事のはからいで、ダミアン神父に対し、自由に布教活動を行う許可が与えられた。

3.ハンセン病発病以降の仕事

発病と帰天

モロカイ島で救済活動を開始してから11年後の1884年、ダミアン神父はハンセン病の診断を受けた。感染の最初の兆候はモロカイ島到着から2年後(確定診断を受ける9年前)に見られたが、症状は軽かったようである。病はゆっくりとした経過をたどり、その間、皮膚に見られた症状は消失と再発を繰り返した。やがて皮膚や神経などに重い症状がでるようになり、以降、ダミアン神父の身体は急速に蝕まれていった。

 確定診断がくだった後、ダミアン神父はミサで「われらハンセン病患者は……」との表現を必ず使用するようになった。ホノルルの司教はダミアン神父を呼び戻すことを考えたが、ダミアン神父はモロカイ島に患者と共に残ることを希望した。

 私はハンセン病にやられましたので、御地(ホノルル)に参ることができません。私の左のほほと耳に兆候が出て、まゆ毛は落ち始めました。じきに顔が不恰好になってしまうでしょう。この病気がいかなるものか、私はよく知っています。しかし、私は平静で、ここの人々の真ん中でたいへん幸福に暮らしています。神は、私の救霊のための最上の道をご存知です。『み旨のままになれかし』と、毎日、心から唱えています。

同書、179 頁。

  罹患後もダミアン神父は旺盛な活動を継続し、患者の救済や施設の拡充や修繕に残りの人生を費やした。
 1886年、ダミアン神父は日本人医師、後藤昌直(1857-1908)の治療を受けるために数日間ホノルルに滞在した。後藤の提唱する薬湯による入浴療法によって症状は一時的に軽減したとされるが、その後、劇的に悪化し、1889年3月30日、ハンセン病の症状である呼吸不全により死去した。享年49歳。翌日に行われた葬儀には全集落の住民が参列した。
 1936年1月、ベルギー国王レオポルド3世とベルギー政府により、ダミアン神父の遺体はベルギーに戻され、ルーヴェンに埋葬された。

4.ダミアン神父と日本人


  ダミアン神父がモロカイ島で救済活動を行っていた頃、隔離地には数名の日本人患者がいた。この日本人患者がいかなる経緯でハワイにわたってきたかは不明である。
この他、ダミアン神父と縁のある日本人をここで紹介したい。

後藤昌直:1885年、ハワイ国王に招聘されてホノルルでハンセン病患者の治療にあたる。後藤は慶応大学医学部卒業後、「起廃病院」においてハンセン病患者の治療にあたっていた。1881年、ハワイ国王が来日した際、起廃病院の視察に訪れている。後藤の開発した薬湯療法によって治癒した患者もいると言われ、ダミアン神父もこの治療を受けている。ダミアン神父は後藤医師を信頼し、「私は欧米の医師を全く信用していない。後藤医師に治療して貰いたいのだ」(Gavan Daws, Holy Man, New York : Harper & Row, 1973, p.162)と述べた。

小室篤次:20世紀初頭にニューヨークに渡ったメソジスト会牧師。ダミアン神父の生涯と業績を調査するためにハワイを訪れ、昭和5年に教文館から『聖者ダミアン』を出版。当時の記録によれば、モロカイ島におよそ500名の患者が居住しており、42名の日本人患者が含まれていたとのことである。カトリック司祭で医師の戸塚文卿が小室の調査をカトリック界に紹介した。

岩下壮一:1934年、ダミアン神父の足跡を追って、モロカイ島訪問。ダミアン神父存命時から歳月が経過していたこともあり、ダミアン神父が活動していた区域は既に廃墟となっていたと、岩下は報告している(『岩下壮一全集』第8巻、中央出版社、1962年、168頁)。モロカイ島の隔離地域はより近代的な医療施設へと立て替えられ、患者に対する社会制度もより高度なものへと変革されつつあった。これに伴い、隔離施設内における宗教家の役割も、ダミアン神父存命時とでは、変化してしかるべきであると、岩下は述べる。近代科学技術と整合したうえで、宗教家固有の役割を発揮してこそ、社会的な意義を持つことが可能となり、患者にもよい援助効果を与えることができるというのが、岩下の主張である。


 流刑地の同然の孤島で単身ハンセン病患者の救済に努め、自ら罹患して死にゆく中で患者の救済に努めたダミアン神父は2009年10月11日、教皇ベネディクト16世によってローマで聖人として列聖された。重病の二人の患者がダミアン神父のとりなし(祈り)によって奇跡的に救われたことが聖性の根拠として認められたためである。式典にはベルギー国王アルベール2世とパオラ女王、ベルギー首相ヘルマン・ヴァンロンプイらが参列した。

 生前のダミアン神父の業績の中で特に注目したい点は、病苦と孤独感から厭世的になり、自暴自棄な生活を送る患者たちに信仰を取り戻させたこと、患者たち一人一人に希望を持たせ、長らく停止状態にあったモロカイ島の教会共同体をよみがえらせた点にある。その際ダミアン神父はゆるしの秘跡と病者の塗油(終油の秘跡)を何よりも重んじた。いかなる重症患者をもためらいなく抱き寄せ、励まし、秘跡によって患者と神との和解を実現させることに専心するダミアン神父の姿は、患者の内面に変化をもたらした。政府や教会がダミアン神父の訴えによって施設の修復や教会の建設にために多額の費用と資材を提供すると、工事に多くの患者が加わり、建設作業は迅速に進んだとされる。その結果、モロカイ島はもはや死の島ではなくなり、希望を持って人々が暮らす島となった。
 絶望の淵に沈んだ患者たちが死を待つのではなく、「生きる道」を歩み始めたきっかけとなったのは、ダミアン神父の救済活動と「ゆるしの秘跡」であったといえるだろう。

K. Oshima

参考文献

小田部胤明『ダミアン神父――救ハンセン病の使徒』東京:中央出版社、1993年。

柳谷恵子『二つの勲章――ダミアン神父の生涯』東京:サンパウロ、1993年。

『岩下壮一全集』第8巻、東京:中央出版社、1962年。

Robert Louis Stevenson, Father Damien, London: Chatto and Windus, 1890.

Davan Daws, Holy Man, New York : Harper & Row, 1973.

ハワイ州観光局公式サイト。http://www.gohawaii.com/jp/molokai/about

http://storico.radiovaticana.org/en1/storico/2009-10/324616_pope_proclaims_five_new_saints.html



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?