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学校から余裕が消え、評価に押し込められる子どもたち

学校に余裕が失われて久しい。


かつては、学習でも学習以外の場面でも、評価がはたらかない領域は多かった。いちいちすべての言動に、評価点を与えるという発想はそもそもない。

ところが今起こっていることは、
子どもたちのすべての言動が「評価されうる」ということだろう。


学習であっても、そうでなくても、すべてのことが内申点に直結する。


実際子どもたちにむけて、そのことに言及する教員さえいる。


たとえば学習の場面。
「学校でやることはすべてテストに関係がある。関係のないことは一切やらない」と、子どもたちに指示通り学習をさせようと躍起になる。


たとえ、知識、知性の領域であっても、テストでは問えない学びというものがある。テストでは問えない知性の領域は確かにある。計算可能性の外になるものだってあるだろう。

かつての学校はそうした、より広く深いまなびの領域を知っている場であったはずだ。



ところが教師の側から、すべてを教科書とテストの領域に子を閉じ込めようとしてしまう。


理由は非常にシンプルで、管理統制すること、および(評価において)クレームが出ないようにするためである。

現状では、
豊かな人間形成も知性の育成も、ほとんど希望が持てないと言って良いだろう。

我々の知性も人生も、ノイズや計算不可能性をも含んだ上で、はじめて成り立つものである。

果たして無駄とは何か。

それは学ぶ前や最中にはわからないことである。


ここで大きな弊害となるのは、「ああすればこうなる」とinputに対して必ず望んだoutputが得られると、単調(比例関数的に。右上がりの直線を想像してもらえるとわかりやすい)に考える自身の欲による悪弊であり、買う前からかならず効用がわかる(たとえば、冷蔵庫を買えばかならず物を冷やしてくれる)消費とそこで行われる取引によるワンパターンの思考である。


ノイズや無駄を恐れるがあまり、私たちは、ひどく「つるんとした生き方」を望むようになっているのかもしれない。


「豊かさ」について、あれやこれやと考えている。


(おわり)



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