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実力がない人ほど「人を教えたがる」傾向があるのはなぜか/畏れと欲

地方でいちプレイヤーとして活動するようになり、わかってきたことがある。


その一つは、「実力がない人ほど、すぐに人を教える役割を担おうとする」という現実である。

どうやら、人というのは、他人に「教えたい」という欲望に侵されやすいらしい。

悲しいかな、昨今のSNSに見られる、「すぐにマウントしようとする」人たちの性質も相まって、これを加速させる。


また、このことは、人を思い通りに操作したいという操作主義とも関連があるだろう。


参考動画はこちら
Vol.3(音声修正版)『教え方2.0』先生像のバージョンアップ -人を教えることはできない- 本田篤嗣 https://youtu.be/FLr15uB7di8

いずれにせよ、
「実力、技術がない人ほど」、「教える側に回りたがる」傾向があるようだ。

だからこそ、誰もが、教えることのおそろしさ、を知る必要がある。


ここで考えなければならないのは、「畏れ」の感覚である。

昨今、子どもたちは、社会の有り様から影響を受け、「畏れ」の感覚が鈍くなってきているようである。

大人もまた、インターネット、SNSの影響や、共同体のあり方やコミュニケーションの変容によって、この畏れの感覚を鈍らせてしまっている。


教えるということは、本当におろそしいことである。
オソレオオイ、できればやりたくない。
そういうものではないか。
それでもなお、社会のために世の中のために、必要にかられて行う。
やりたい、ではなく、使命。


それが教えることの本来の姿なのではなかろうか。


はーい、わたしやります!と、挙手のもとで、自己推薦で、やってしまう人が、なんとも多いことか。
そのおそろしさを、やはり知るべきなのである。


このように言及していくと、
なぜ実力がある人ほど、教えることに慎重であるのか?が見えてくる。


実力がある人ほど、教えることの怖さを知っている。
畏れである。


さらに、こうも言える。

いわゆる名人だとか達人だとか言った人ほど、その地点に到達することの難しさを知っている。
単に教えるという行為だけで皆が必ず同じところまでたどり着けないことを知っている。

教える行為には常に慎重であると言ってよい。


いわゆる昔の職人によくある「見て学べ」というやり方も、実はこうした、「直接的に」「具体的に」教えることへの畏れや、その困難さがわかっていたからこそ存在していたやり方なのかもしれない。

ワタシニハ、ワガミチヲミガクコトハデキテモ、ホカノヒトヲオシエルコトナド、デキナイ

あわせて、昨今は、先が見えない時代だからこそ、手を動かし続けることの重要性が語られることが増えた。

かつての、それなりに歳を取ると現場を離れ若い人を動かす方に回りたい、みたいなノリは今はトレンドではない。このかつてのノリも、やはりここで言う「教えることへの欲」が見え隠れしているのだ。

まとめよう。


教えることへの畏れを持たない人に注意すべし。実力は大抵の場合、中途半端である。
そして、自らも省みること。
それは、単なる煩悩なのか、それとも使命なのか、を問い続けること。

教えるを簡単に口にするということはどういうことかを知る人にこそ、師事を仰ぎたいものである。

(おわり)






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