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公的サービスと喫緊の課題について/美意識を問う

公的サービスの問題。

公が提供するサービスは、自治体ごとに異なるものもが多いのが現実だ。

市民にとって、特に自分自身にとって重要度の高いサービスだと思われるものについては、そのサービスの内容次第で、自分の住む場所を選ぶ、ということは、当然のことといえよう。

その点で公的サービスの評価は、一定数、人の転入に影響をおよぼすと考えるのが自然だろう。
いわゆる住みやすいと呼ばれるまちに、人が移住してくる可能性は高まるのだ。

もちろん、住む前にこれらが選べるのは限定的で、
多くの場合、すでに住んでいるまちにおいて、自分の環境や年齢の変化に応じ、必要となる公的サービスも変化したり新しく現れたりするのが一般的であろう。

たとえば、我が子が就学する年齢になれば、教育や医療などはそれに応じたものが必要となるし、我が親が介護の必要な年齢になれば同様に、何らかの公的なサービスが必要となるはずだ。

ここで、言及したいのは、
公的サービスやその制度に問題や課題があるとき、
市民の側がそれらのサービスが必要となる年齢や環境に「先んじて声をあげる」ことは「難しい」ということだ。

多くの場合、自分が「必要となったそのとき」に、問題点について「声をあげるだけの時間的または金銭的な余裕はない」。
多くは即日その瞬間に決断や選択を迫られるはずで、もし制度に問題があったとしても受け入れざるを得ない。
それゆえ、上げられるべき声は上がらないまま、公的サービスは現状維持され続けるのである。

公の側は、まずこのことについて、
意識を高めておく必要がある。

(反対だとか変更を要求する)声が上がる、その件数だけで、このシステムはうまくいっている、問題ない、と早合点してはならないのである。

逆に言えば、僅かであっても、声をあげる人が出てきたときは、もうすでに大問題であるかもしれないと、問題や当事者に対しての感度を高めなければなるまい。

だとすると、公に属するいち働き手は、たとえ、制度を変える権限があろうとなかろうと、システムを支える一人して、
常日頃から「制度それ自体について、批判的複眼的な思考を持ちながら」、任務を遂行しなければならないのである。

先日も県の方と仕事をしていたのだが、
若手の職員に「現場のあなたたちこそが、いつも制度に批判的な目を持ちながら仕事をする必要があるよ」という話をした。
「あなた方現場の人間が、何も疑わず、決まっていることはすべて正しいと仕事をしていてはならない。必要があれば現場レベルでも、あなた方自身でも声をあげられる、そのような意識が必要だ」という旨を述べた。
若手職員は、かなりの不服気味で、半ギレ状態だった。みなさんも想像に難くないだろう。
(これは、次世代の子たちの学ぶ力、変わらない子どもたち、の問題である。詳しくは『教え方2.0』動画を参考にされたい)
幸い、同席していた上司の方は落ち着いて話を聞かれていた。

市でも県でも、公の方と仕事をするときは、必要なタイミングや場面で、
常に同様の内容を話してきている。
(サービスが有効に働かないことは、コスト面、税金の無駄遣いの面もあるのだがここでは言及しない)
その理由がまさに、
今ここで話していることによるものだ。

当事者から、問題が提起されるということは、その時点ですでに問題が大きく膨らんでいる可能性がある。公に従事する者が忘れてはならないことであろう。

さて、もう一点、現実面から述べておく。

制度に声が上がりにくい。かつ、公の性質上、変更や改革には時間がかかる。
とすると、
市民に打てる手は、二択になる。
(ここでは、一定の時間をかけて、「組織化したチームや団体で問題解決にあたる」それと「議員になる」という選択は、時間と労力がかかりすぎる点でも全員に向く方法ではないので、とりあえず脇においておく)

選択1
「引っ越す」
リスク&コストを考えても、その問題の重要度が上回る可能性が高い。そのような問題であるなら、求めるサービスを享受できる自治体へ引っ越すことが賢明な選択だろう。
自治体関係の皆さんは、これについて真剣に考えてほしい。あなたのまちの人口は、間違いなくこうして減っていくのだから。

選択2
「そのまま受け入れて、辛抱してやり抜く」
積極的選択ではない。しかし、コスト面がこれを要求する可能性は、貧困日本においては十分ありえる。
ただし、これを選択せざるを得ない場合は、できるだけ、周囲に理解者や協力者を探し、つながりをつくっておく。生存戦略として。追い詰められないように、できるだけ多くのつながりを作っておいてほしい。

公的サービスの現状を鑑みて書いている。

今後のまちづくりと地方の生き残りにも関わる重要な問題であると認識してほしい。


最後に。


読者には、公の職に憑かれている方もおられるはず。「決まりなので」「制度なので」と言い訳される方も多い。
そんなことは、誰でも知っていることなのであって、言い訳にすらならない。

それでもなお、「決まっているから」それが「正義」と言ってしまうのか。
正しさを主張してしまうのか?

理由は簡単だ。

それは、あなたが「麻痺」しているから。

そう、あなたは、すっかりその仕事になれ「麻痺」している。
麻痺していると麻痺していることにすら気づかない。

山口周さんの本が流行ったが、そこからお伝えするならば、あなたには「美意識」がない。
だから、「決まっているから」「制度だから、これこそがフェアだから」と正義を主張してしまう。

美意識の麻痺である。


チェックは簡単である。

あなたが何か問題を抱えた市民(問題の当事者)を目の前にする。話を聞く。

そのとき、

「あなたの心は、痛まないですか?」

「あなたの心に、窮屈で、苦しんでいる、『痛みの音』が聴こえて来ませんか?」

もし、痛み感じない、その音も聞こえないとしたら、もうそれはかなりの麻痺状態です。

美意識とは、そういうこと。

あなたはどう思うのか?

あなたは本当にそのことを美しいと感じるのか?

本当に違和感がないのか?

そのことをお伝えして、この記事を終わりとします。

(2019.1 ブログより)



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