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政治家と市民の役割

政治とそこにある共同体。政治家と市民について書く。

まずは、マックス・ヴェーバーについて言及した、小室直樹氏の著作より引用させてもらう。

以下、引用。

”マックス・ヴェーバーは、「最高の役人は最低の政治家である」と曰(い)った。「役人という者は、朝から晩まで、答えのある問題の解決にだけ没頭しているものだから、そのように頭が出来上がってしまっている。だから、政治家には向かない」ということを彼は言わんとしているのである。
政治家の任務は、答えのない問題に取り組まなければならないことにある。”

小室直樹著『数学嫌いな人のための数学』より

〜以上、引用終わり〜



次に、社会学者宮台真司氏からも引用しておこう。

”行政官僚は既存のプラットフォーム(ゲーム盤)の上で利益最大化を目指すべき存在です。政治家は急変する政治環境・経済環境・社会環境に対応して必要とあらば既存のプラットフォームを覆すべき存在です。”
”政治家は国民を守るべく事情次第では市民倫理に違背する覚悟がなければいけません。市民倫理からすれば汚れていても、国民を現に守り、その将来を現に切り開く者は、政治倫理を全うしているのです。”  

宮台真司著『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』

〜以上、引用終わり〜

ここにみてわかる通り、政治家というのは役人の延長線上に存在するものではない。良い役人はそのまま良い政治家にはなり得ない。政治家がいかに特異な存在であるべきかがわかるだろう。

市民についても同じで、市民の方から簡単に仲間意識を持てるような政治家が、果たして本物の政治家であろうか、そう問われねばならない。


政治家の本質は、必要とあらば、市民の側の倫理を飛び越え、既存のプラットフォームから飛び出し、既存のシステムの外で意思決定を下す、その覚悟にこそある。

もちろん、選挙で票を取ることは当然大事なことであるから、市民に対し丁寧に説明をし、理解を得、また市民の声に耳を傾けながら支持を獲得することは重要なことではあるのだが、そのことと、ここで述べる政治家に問われる資質は別のものである。


これら、気になる方は、マックス・ヴェーバー『職業としての政治』あたりを読まれたし。(日本人は最低でも大学の段階まででオーソドックスな古典をもっと読むべきではなかろうか)


政治家自身が政治家であろうとし、市民の側もまた市民たる責任を果たす。


そういうことがおろそかにされていないだろうか、
政治の側も市民の側も役割を全うしようとしているだろうか、
またそのための学びがあるだろうか?

それらをみなさんに問いたい

(おわり)


 アメブロ 本田篤嗣 https://ameblo.jp/mrhonda/






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