学校の勉強のその先にあるもの/世界の理解への入口

学校の勉強はたかが学校の勉強、と切って捨てるような感覚を持っている、大人の方も多いのではないだろうか。


たしかに、これを単なる試験通過のための技術にすぎないと考えれば、これは至極、チープなものになるだろう。
僕もただのテストの点数、受験の点数には、興味が持てない。

ところが、この点数の勉強をツールと割り切り、本質的な勉学の中身にフォーカスしてみると、話は変わってくる。


教科書を使う側の意識が変われば、子に与えられる知識や教養、思考はもっと膨らんだものになり得るのだ。


たとえば、中学生の数学。

僕が好むひとつは関数の単元だ。子どもたちにとっては、答えがただひとつに決まりオペレーションだけできれば解にたどりつけてしまう方程式などにくらべると、難解に感じやすい。
その点で、関数は(中学範囲であれば)抽象度が高い。
実はこの「抽象度が高い」というところに意義がある。
たしかに読み書きそろばん、それこそ四則が扱えれば、買い物程度の日常にはことが足りる。
しかし、それは目先の満足に過ぎないし、それ以上の「世界」に触れることができなくなる。

世の中は、単に買い物だけできればよい世界ではないからだ。

経済も政治も、それこそ国家や国民といったよりマクロな視点で世界を見る時、私たちにはより抽象的な、抽象度の高いものの見方が必要となる。

経済はどう動いているのか、政治行政の仕組みは、はたまたテクノロジーは?と問えば、目に見えない抽象思考のたまものによって成立しているわけで、それこそ関数だって直接的に用いられているのである。

その点で中学からの関数の導入には意義がある。

教え手としても、できるだけその子の力を把握し、また伸ばしていくために、関数の単元などは特にいっしょに勉強したいところとなる。



また、たとえば中学の歴史。
終わったことを学んで何になる、というようなことを言う人もいるが、それではかなりやばい。私たちがどこからきてどこに向かうのかを考えるために、歴史の知識が必須だからだ。

たしかに教科書は羅列的記述に終始する面があるために、教科書だけを学び、点数を取ることだけに邁進していては意味がない。
単語の暗記だけをしても意味はない。むしろ、歴史を学ぶためにはたくさんの書物に当たるべきで、教科書はそのきっかけづくりに過ぎない。
もし点を取るためだけに教えているとしたら、その先生の授業はそれ以上の意味を持たない。

実際のところ、僕は自分の授業でそうしたところに踏み込んでいく。
たとえば、なぜ宗教を学ぶ必要があるのか?なぜヨーロッパの思想哲学を今学ばなければならないのか?それを子どもたちに問いかける。
仏教の意味は?キリスト教の意味は?天皇とは?国王とは?議会とは?憲法とは?江戸時代は?明治時代は?そのすべてが、今の私たちの社会や国家を作り、国民、市民としての立ち位置を作り出している。
それを子どもたちに語りかけ、ともに考える。
たとえば先日の会話で言えば、カルヴァンとプロテスタント、予定説と資本主義、ヴェーバーにまで話が及んだ。もちろん中学教科書に載っていない事柄も多い。単語が載っていても、それ以上の意味を考えることに、歴史を学ぶ本質がある。


話をもどそう。


受験の点数も偏差値も、テストの点数も、それだけでは、人生というスケールで考えれば大した意味を持たない。たいして重要ではない。


しかし、勉学の道は教科書という狭い世界に閉じていない。


世界は、限りなく広く、知とそれによって築かれた人類のありようはより深いところに存している。

大人が、親が、まずそのことを知り、
たかが学校の勉強ですら、世界への理解の入り口が開いていることを知った上で、
学びへの道が、自身の人生をよりよいものに変えてくれるものであること、そしてそれは大切な人類の財産であることを、伝え続けなければならない。

追伸

だから、子どもたちの「こんなの将来、役に立たないじゃん」という無知に、 毅然たる態度で向き合わなければならないことを付け加えておきます。
負けるな大人。



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