鹿砦社『真実と暴力の隠蔽 -カウンター大学院生リンチ事件の闇を解明する』のインタビュー記事についての個人的見解

発端となった関西の反差別運動をめぐる傷害・暴力事件について

 2014年12月16日深夜、いわゆる「しばき隊」の関西の関係者間で傷害事件が発生した。

 彼らの行う運動内部での出来事をめぐってのもので、それは被害者であるM氏(大学院生)が、加害者A氏に関して運動をめぐる憶測に基づく噂を他者に吹聴してしまうということが始まりだった。これを聞きつけ激昂したA氏が、運動関係者が集まる酒場でM氏に1時間にも及ぶ暴行を行ったものだ。これによりM氏は鼻骨骨折等で全治三週間のケガを負った。

 ここまでは個人的なもめごとの次元で収まるものであったと思う。しかし、問題はこれが運動関係者との懇親の場で行われたことであり、さらにはその運動内部で、二次加害のようなネットでの被害者の気持ちをわきまえないような書き込みが続いたことだ。それだけではなく、被害者に対する誹謗中傷や個人情報がネットに悪意を持って記載されるというようなことが立て続けにおきた。

 被害者M氏は、その支援者とともにこの事件を明るみにした。当初は被害者も内々ですませようとしたものだったが、加害者側(その懇親の場に言わせたものも含めて)に運動の自粛を求めたりした約束が反故にされてのことだった。さらに問題なのは、加害者側と支援者が運動そのものへの影響を考えて、運動内部さらにはマスコミ関係者を含めた人に、いわば隠蔽めいた工作が行ったことが原因である。
 
 関西の運動の人たち特有の人間関係の複雑さや従来抱えていたささいな対立の構図が加わり、双方の非難合戦が始まった。そのターゲットになったのは、主に被害者の側である。
 運動のためにマイナスになることはいけない、運動に分断をもたらすことはよくないという運動優先の「大義」が前面に押し出され、被害者M氏は軽視され、そうしてネットでバッシングは続き、それをこの運動の関係者やメディア関係者は無視し続けた。
 
 ひとつの民族差別に抗するという本来であれば真っ当な活動が、その運動のために個人を圧殺するという方向に向いているというこの事態を、私たちはどう考えればいいだろうか。

 強調しておきたいことがある。この事件の実際の加害者であるA氏は刑事罰を受け、現在はこれに連なる民事裁判も進行中であるが、本件については反省してきており、今ではその運動に復帰している。これについては私も支持するところである。

 が、いわゆる「しばき隊」の運動界隈のネットを通じたバッシングはおさまるところがなく、それはもはや、この被害者M氏に対するイジメに近いような、卑劣でしかないレベルにまで拡大した。

 運動のためには個人は顧みられなくてもいい、運動のために故人の事情でマイナスをするものはそれがなんらかの被害があろうが耐え忍ぶべきであるという思想は自分はコミットしたくないし、そういう問題こそを明るみに出したほうが、長期的にみれば運動のためになると自分は信じている。

 運動を通じて培われた仲間意識や運動の目的が崇高なものになり、個人は運動の犠牲になっていいとか、大きな目的のもとに個人は圧殺されてもいいとか、そのようなことを繰り返せば、その目的を果たすことはできなくなる。 そうして結局は運動自体がダメになる。これは古今東西の歴史が証明していることだ。

 いわゆる「しばき隊」界隈は関西のこの事件のみならず問題を起こしている。それも、一部のものが起こした暴走を止められなかったことよる。それが問題化したときも、関西の事件と同じく、内々で事態の収拾に動いていた。これを「隠蔽」というものもいるが、私はそこまで悪くはとらない。内々で解決できるならばそれに越したことはない。しかし、結局は内部でその問題は片付くことはなく、素知らぬ顔で本来の責任があるものが解決に程遠いなかで運動に戻ってくることになった。

 そして、その問題が解決してないということを公にしたものは、またネットでのリンチに近いバッシングを受ける。いわく、「裏切り者だ」「私怨だ」「個人的な恨みに運動を巻き込むな」等々。

 これは絶対におかしい。

救済されなかった被害者

 関西の事件について、これは単なる個人間の喧嘩であるという理解なのか、メディアはどこもこれを取り上げなかった。一部では、この事件は単なる個人間の喧嘩であって、よくある話なのだ、と反差別運動に詳しいメディア関係者にレクチャーのように話があったと聞く。反差別運動にかかわる関係者をリストアップされ、そのためその言葉を多くの関係者は信じた。悪いのは加害者ではなく、運動を私的な理由で分断しようとしている被害者だ、と。
 「運動に分断をもたらすことはよくない」と、この事件について聞くと、あるジャーナリストは答える。しかし被害者救済はされないまま、その被害者へのネットでのリンチが横行しているのは、このジャーナリストはよく承知しているはずである。何かがおかしい。
 
 社会的なマターとなりうる、社会運動となりうる、いわば大文字の「差別」や「人権侵害」のためには、個人にふりかかる小文字の「人権侵害」はそのまま放置する。しかしそれでいいのだろうか。

  私はこれらの問題の核心はなんなのか考えた。運動が個人を圧殺してしまうことが、こうも凡庸に繰り返される集団の目に見えない論理はなんなのか。

 私は彼らが行う反差別運動をおおよそ支持する。実際にその大勢とは行動をともにしたこともある。しかし、とある考え方の違いで袂を分かったあとには、この運動の外部から行動を見てきた。すると、やはり違う光景が見えてくる。

 さらにこの関西の事件については、双方の関係者や支持者に直接話を聞いてまわった。そのうち、被害者側のやり方にもいくつかの問題があるというのもわかってきた。しかし、この問題を引き起こしている原因のほとんどは、この運動のもつ歪んだ運動中心主義や、もはや健全とはいえない身びいきの仲間意識、さらには敵と味方を二元論でしかとらえることのできない偏狭な運動の論理であり、それらは時として本来立ち向かう相手ではなく、内側の人間を踏みつぶしていくということを確認せざるをえなかった。

 鹿砦社もその取材対象のひとつであった。鹿砦社は加害者側の事情を取材し、丹念にこの事件の全貌を解き明かしていた。そのえげつないまでの報道姿勢は問題となるだろう部分もあるだろう。さらには、加害者側の界隈からは、鹿砦社はデタラメだデマを書いている、と小さな情報の瑕疵をあげつらいフェイク扱いする。しかし、そこに書いてあることは、私が調べたものや取材したものなどに照らし合わせても8割方は事実である。
 この被害者側の支持者による論法は、あたかも情報の小さな瑕疵を見つけては、全体の事象を「なかった」とする歴史修正主義者の論法と同じものなのを彼らはわかっているだろうか。

 スキャンダルで売ってきた出版社が加害者側にまわったのが、被害者にとってプラスなのかはわからない。しかし、どこのマスメディアも取り上げないなか、被害者側も選択の余地はなかったのだろう。
 しかし、鹿砦社側もよくよく聞いてみれば、「被害者救済がきちんと行われ、被害者に対するネットでの集団攻撃などの陰湿なリンチめいたことがなくなれば、元の鞘に戻ればいい」という意味のことを言っているのは意外だった。実際、それほどこの関西の事件に関してはあまりにも加害者側(直接の加害者は除く)に筋が悪すぎる。この鹿砦社は、この事件を反差別運動の「リンチ事件」と呼ぶ。この「リンチ」という用語が妥当な使い方はわからないが、その後にあったネットでの被害者感情を逆なでし、時に明確な人権侵害に値するような多数からのネットでの攻撃(二次被害)を含めれば、確かに「リンチ」と言ってもいいかもしれない。

 私の友人で、反差別運動にもかかわったことがあった木下ちがや氏を鹿砦社に紹介したのは私である。それは、鹿砦社の木下氏に関する論評が見当違いであったことを正したいということが第一の理由だ。
 すでに反差別運動の大きな広がりのなかで、くだんの「しばき隊」といわれる一団が、差別運動のなかでも孤立しつつあるということを明らかにしたかったからだ。

 様々な問題を起こして世を騒がせ、そしてそれを、いわゆる「しばき隊」は自浄できないからだ。また出てくるだろう問題に巻き込まれるのは、まじめに反差別の運動を行っているものも迷惑であろう。
 本来は社会全体の理解を得なければならない運動なのに、ずっと敵をつくってばかりいるその性格面も、良心的な人々を遠ざけていた。私も反差別運動に関して様々な人々と接触はあるし、自分もそれに近いことをしているというのもある。そしてそういう人々と会うたびに、あの界隈には近づかないほうがいい、必ず問題をまた起こす、彼らを遠ざけたほうが長い目でみて反差別運動のためになる、繰り返し言ってきている。

 在日コリアンの方々からすれば、彼らは頼もしい味方に見えよう。実際のその側面はある。しかし、もうひとたび考えてみよう。これまで反差別運動がダークサイドに落ちてしまい社会から決して支持される存在にはなれなかったといういくつかの失敗例を。私は過去から学ぶということに謙虚でありたい。社会の支持を得られなければその運動は必ず失敗する。

 木下氏はこういう現状認識を共有できる知人のひとりであった。次から次へと起きる、いわゆる「しばき隊」関連の事件にはっきり批判的だった。そのため、何度か話を聞かせてもらった鹿砦社の松岡社長に紹介した。そして一度インタビューという流れになった。いわゆる「しばき隊」にこれだけ近い人物のインタビューということで、鹿砦社側も構えた。なお、今回問題となった『真実と暴力の隠蔽 -カウンター大学院生リンチ事件の闇を解明する』には、編集部名義で木下氏に関して事実誤認していたことがあったとわざわざ謝罪文まで掲載されている。それほどインパクトは大きかった。ところが、その木下氏が不用意な発言をしてしまった。その詳細はそれこそ「二次被害」になるので割愛するが、確かに褒められたものではないし、その相手方にとっては迷惑このうえないだろう。自分もそれをあたかも受けて追認するような発言をしてしまっていたため批難が来ている。

『真実と暴力の隠蔽 -カウンター大学院生リンチ事件の闇を解明する』での木下発言について

 先に説明すると、実をいうと木下氏も自分もこのインタビューはボツになったものと思っていた。というのも、このインタビューは2017年のもので、そのあとに出た号では紙面の都合によるとのことで掲載されなかったからだ。その後に特に何も連絡なく、該当の最新号が献本されてきた。
 読むとインタビュー記事の前に、「今回はあえて被インタビュー者に原稿チェックは依頼しなかった。構成・文責は取材班にある」と鹿砦社は書いている。前号で津田大介氏にインタビューした際に、ゲラの段階で全面的に書き換えられたのがよくなかったとのこと。これにはおそらく他のインタビュイーも困ったことだろう。このインタビューコーナー?で別にとりあげられている、中川淳一郎氏も普段ならば掲載されたことをtwitterなどで告知するのだろうが沈黙したままである。自分から見ても赤裸々ないわゆる「しばき隊」とメディア関係者批判が書いてある。普通これらはゲラの段階で削除されているだろう。

 私はこういう取材手法についてはありうると思っている。そして私自身もゲラを取材対象者に見せることが無いときもある。ただし、その文責は当然私自身のところに来ることを覚悟してだ。インタビューだろうとそれは発言者の著作物であるから著作者人格権を有する。それを越えて掲載するならば、その責は掲載した側にある。それが自分の理解である。そうして木下氏の発現もやはり問題となるようなものだった。

 往々にしてプライベートな人間関係の話は噂レベルのことが横行する。

 そのため、

 ①確実といえるくらいの確証があり、
 ②それを公にするなんらかの明確な社会的な意義をもつもの

 でなければ自分は取り上げない。

 先に少しふれた 反差別運動のリーダーに関する問題は、両方を満たしたので、名誉毀損のリスクを覚悟して世に訴えた。これに対して、関西の事件と同じく、いわゆる「しばき隊」界隈から激しい中傷が続いた。この時、自分は孤立無援だった。この中傷が収まったのは、何人ものこのリーダーの問題の被害者がいわゆる #me too で被害体験を語ってくれたからだ。私を個人攻撃していた反差別運動の一派は、まさか被害者が本当に名乗り出るとは思っていなかったのだろう。それまでは、裏切り者扱いされた私は、この界隈から執拗な嫌がらせやこちらの個人情報までネットでさらされた。そして、被害女性が次々とカミングアウトしてくれると、今度は手のひら返しでリーダーをポーズをつけるように非難した。
 私がひたすら罵声を浴び続け、曰く、運動を分断する、私怨だ、デマをまき散らすな、名誉棄損だ、と言われ続けたあれはいったいなんだったのだろう。

今回の鹿砦社のインタビューも自分の足と耳で得た情報をもとに話をした。このいわゆる「しばき隊」関連の問題について一石を投じる内容もはいっていたと思う。木下氏も注目すべきことを述べていたが、そのうちに道を踏み外してしまった。
 
 もう一度言おう。①確実といえるくらいの確証があり、②それを公にするなんらかの明確な社会的な意義をもつ ならば、自分は名誉棄損のリスクがあっても書く。今や、いわゆる「しばき隊」とその運動の関係者は、それなりの影響力があり、その活動はたびたび社会的なインパクトを良い部分でも悪い部分でも与えている。それならばその関係者について、①と②があれば、それはリスクを覚悟でも言うべきだと個人的には思う。ところが、今回の木下氏の発言にはこれが薄かった。たいへん残念である。

 こうして自分も自分なりに止めたし、今回の問題でそのような人間関係にまつわる醜聞を取り上げても、かえって本質から遠くなると思ってその旨も述べている。ただしその部分はおそらくカットされている。問題となる発言のあと、少し触れているが自分自身もそのような人間関係にまつわる醜聞で迷惑してきたこともある。そのことにも触れている。だから、木下氏には申し訳ないが、先ほどの①と②をみたさない話を、身を切る覚悟なしで行うのであれば、それはやはり批難されるのは致し方ないと思う。もちろん木下氏はこれを事前の原稿チェックがあれば止めていただろう。そういう意味で「構成と文責」は鹿砦社ということになるというのが私の理解だ。しかし木下氏は総バッシングとなってしまった。やはり甘かったと思う。それを確信犯で掲載した鹿砦社はエゲツないと思うが、それを予見できなかった木下氏の甘さは否定できない。自分自身の発言が、書き言葉ではなく、話し言葉のテープ起こしそのままでどう読まれるかは知らない。しかし自分でこれ以上解説するのもどうかと思うので、あとはそれを読んだ人間の判定に委ねる。

 私自身も取材と断ってテープをまわしたとき、その中で人間関係の醜聞が出てくることはこれまでも多数ある。私は原則的にそれは使わない。信頼関係に背くからだ。使うとすれば先ほどの①と②の原則に照らし合わせて自分の責任において発言するだろう。
 今回、木下氏を非難する人の中にも取材を通じてそういう発言をされている方もいる。では、それをもし私が発言者に断りなく発言者を明記して掲載したらどうなるだろうか。その人に責任があるということになるのだろうか。

 そして何よりも、これをもって木下ちがや氏を追及するならば、せめてその何分の一でもいい、鹿砦社が追及する関西の傷害事件とそのあとのネットリンチの実情を確かめてほしい。あそこに書かれていることは、その界隈がいうようにデマではない。そして単なる「友人同士の喧嘩」などというものではない。
 先に触れた、いわゆる「しばき隊」一派のリーダーによる問題をはじめて取り上げたとき、それを彼らはどのように取り扱い、それをなかったものとするために罵詈雑言を巻き散らかしていたのは誰だろう。そして、それを鵜呑みにして「運動の分断」という大義のもとに、小さな人権をないがしろにしてきたのはいったい誰だろう。私はそのような人たちに木下発言をもって倫理的に批難する資格があるのかたいへん懐疑的である。今さら正義面されて不愉快極まりないだけである。

 そうして、いわゆる「しばき隊」と言われる存在が、もはや自浄能力を失い暴走し続けている様が明らかになってくるだろう。志ある人は、それ彼らの運動には是々非々と望めばよいだろう。しかし深入りするのは勧めることは全くできない。このことはいつかもっと全体像としてとらえたものとして私が書くことになるだろう。私は後退しない。

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清義明

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