鳥取市本町四丁目稲荷大明神社資料について

(鳥取地域史研究 (4), 2002)

 本町四丁目の稲荷大明神社は、旧城下町各所に見られる稲荷の小祠の一つである。鳥取城下町にも江戸時代に多数の稲荷が勧請され、現在もその多くが残存しているが、鳥取大火・鳥取大震災という二度の近代の災害などのため資料の多くは失われている。本町の稲荷は当初からの棟札等が残存している僅少な例である。
 これは、鳥取大火に際して小谷嘉資氏が危険を顧みず搬出したことと、その当時の本町4丁目の町内会長・門脇秀雄氏が文書の裏打など保存に奔走されたことに預かるところが大きい。
 この稲荷はほぼ当初地にあるが、鳥取大火後の鳥取都市計画事業火災復興土地区画整理によって位置がやや東寄に移り、社地が減少した。周辺は駐車場に囲まれており、孤立した状態で稲荷社の祠が建っている。祠は昭和30年に再建されたもので、雨漏が見られ、一部資料に水濡れの跡が確認できる。厨子には御神体の他棟札・安鎮副書などが納められている。
 最古の棟札は宝暦9年銘のもので、祭主平野喜内信格、願主長倉源之進義知の名が見える。この2名については未詳だが、文化3年の棟札に書かれた由緒書によれば長倉は鳥取藩士であり、また、当初この稲荷が平野の本町一丁目屋敷に勧請されたことも分かる。同由緒書によれば、この稲荷は当初長倉義知の病気平癒を願って勧請されたもので、「三百八十歳」の「カウソリ」を初めとする高草郡湯谷村(現吉岡温泉町)吉岡寺(未詳)の野狐5体を祭ったものであったという。これらの記述から、詳細は分からないが、当初は憑き物信仰に基づく祭祀であったと思われる。
 また、この由緒を記す棟札は、その後宝暦12年の再祀を経て、文化3年の平野伊左美武雅が御宮再造営を行った際に納められたものである。平野信格と平野武雅が同族であるとすれば、この稲荷は屋敷神的な性格も帯びていたのであろう。
 その後、天保3年に伏見から分霊を勧請し、以降正一位稲荷大明神社となった。慶応2年の加島屋衛助の再祭祀の頃までは病気平癒の神として信仰を集めていたようである。
 今回、鳥取市歴史博物館の平成12年度秋期企画展「鳥取城下町のなりたちと『いま』」開催に際し、資料の所在について小谷嘉資氏にご教示いただき、現・町内会長の松田博行氏ほか町内のみなさんのご協力を得て、調査の機会を得た。ささやかながら、仮目録と資料集を作成することができたことをもって、謝意を表したい。

⦅目録省略⦆

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