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概説 鳥取城の近代史

(『鳥取城資料集 近代編』 鳥取市教育委員会、2013.3所載)

はじめに

近世城郭の歴史は、明治維新で終わりではない。

鳥取城のように、現存する近世城郭の保存整備を実施する場合には、文化財の性格や現状を的確に把握するためには、近代史の研究が不可欠であり、また、地域社会における近世城郭の意味づけを考える上でも重要な意味を持っている。

にもかかわらず、森山英一『明治維新 廃城一覧』(注1)を端緒とする近世城郭の近代史研究は、近年進展はみられるものの(注2)、近世以前のそれと比較した場合、決して豊富な蓄積があるとはいえない状態である。

鳥取城についても同様で、概要(明治一二年に二ノ丸の三階櫓が撤去されたことなど)は知られているものの、正確な経緯は不明な点が多く、一般に誤解されている面もある。たとえば、所謂「廃城令」との関係(「存置の城」とされていたこと)も、所有をめぐる経緯(国の所有から旧藩主池田家の所有にいったん戻り、その後鳥取市に寄贈されて現在に至る)も、市民にはほとんど知られていない。

そういった事柄を踏まえ、本稿では、簡単に明治維新から明治二三年までの政府・陸軍省の動きを概観し、その動きの中で鳥取城が置かれた状態について概観することとしたい。

明治維新~廃藩置県(明治元年~四年)

明治政府は当初近世城郭の取り扱いについて明確な方針をもっていなかった。そのため、明治四年までの城郭の取り扱いは、各藩に任せられていた。この間、建物の破壊や土地の売却が進められた城(注3)も少なくない一方、長島城や園部城(注4)などのように築城が進められた事例が散見することから、このことは明白である。そもそもこの時点では新政府の軍事態勢が確立されておらず、常備軍をもつ各藩への強制力には限界があった。

このことは、古くは吉田常吉によって指摘されている。吉田は明治維新以降廃藩置県までの状況を次のようにまとめている。

「されば江戸時代には、諸侯はその居城を維持するに苦心したのであるが、江戸幕府が瓦解して明治新政となるに及んで、かかる風潮は漸次失はれて、諸侯はその城郭の破毀するを棄てて顧みなくなったのである。而してこの傾向は明治二年六月の諸侯の版籍奉還以後、特に明治三年以降に於いて甚だしくなつたのである」(注5)

不用になった城郭の建築物の維持管理は各藩にとって重い負担であったため、明治維新を契機に自主的に放棄される場合が少なくなかったことがわかる。さらには、老朽化した城郭建物が法治され、危険な状態になってくると、今度は解体撤去して部材を転用し、実用に供しようとすることになる。

このような状況に置かれた城郭にとっては、廃藩置県を経て一旦すべての城郭が兵部省の所管として国有化されたことは、なし崩しの破壊を免れたという意味ではむしろ幸運であったとさえいえる。

 鳥取城の場合、幸いにしてこの時期に破壊されることはほとんどなかった。藩主・慶徳の住居こそ城外に移されたものの、明治二年二月二十八日に鳥取城は政庁と定められ(注6)、明治四年まで使用されたからである。建造物等も含め、ほぼ従来の姿が残されていたようで、この時点までの鳥取城は、全国的に見れば、むしろ良く建物の保存されている城郭のひとつだった。

廃藩置県・廃城令~島根県時代の鳥取城

明治政府の権力が直接近世城郭に及ぶようになるのは、実質的には明治四年の廃藩置県後のことである。明治政府は一旦城郭や陣屋・砲台などすべての軍事拠点を兵部省の所管として国有化した。その後、政府は要塞としての有用性・不用性を判断基準として、陸軍省(明治五年二月に兵部省から組織変更)の財産と、その他の国有財産に分割する方針をとったが、陸軍省はこの方針に反発した。将来の施設整備に支障を来すとして、他省への無償譲渡に難色を示したのである。

陸軍省は、今後必要となる土地については他省から無償譲渡を受けられるようにすることを求め、それが聞き届けられない場合は、譲渡する前に不要城郭の木石・建造物等を払い下げ、将来の財源とすることを主張した。明治五年、陸軍省は、実際に城郭を管理している各府県に指示を出し、払下げのための入札まで実施させている。この入札にさきだち、陸軍省は各地の城郭や旧藩軍の装備を調査して、その財産価値をかなり正確に把握していた。

結局政府はこの入札をよって無効とし、陸軍省にあらためて所管城郭の要・不要を選別させた上で、不要の城郭を大蔵省に移管することとした。なお、この時、陸軍省所管の城を「存城」、大蔵省所管の城を「廃城」と呼称したため、明治六年に出された城郭所管を指示する一連の法例は、一般に「廃城令」と呼ばれている。

「廃城」という言葉が一人歩きをしてしまい、一般にはこの法令によって全国の城郭が一斉に破却されたかのように思われているが、これらの法令群は、基本的には、全国の城郭の管轄を陸軍省と大蔵省に分割し、前者(新築九を含む五十六城)を「存城」、後者を「廃城」(城百二十五、陣屋六十五、要害地十一、その他二十三)とし、各省でその取扱いを定めたものに過ぎない。

「存城」の中に「新築」の城が含まれることをみても分かるように、この法律の趣旨は、あくまで軍財産と一般財産の区別を明確化しようとしたものであって、各城郭の建物の廃絶・保存を問題としたものではない。森山(前掲書)によれば、陸軍省所管となった城郭の方が建物等は保存されている傾向が強いという。松山城のように、一旦大蔵省所管の「廃城」となっているが、天守櫓が現存している例もあり、結果から見れば一概に存城の方が保存のために有利だったというわけではない)。

なお、この時の存城・廃城の書上げは暫定的なものだったようで、その後陸軍省の方針転換で県から再取得した松山城や、そもそも書上げから漏れていた因幡国浦富の陣屋のような事例もある。

この「廃城令」の出された段階で、既に、一部の城郭については、建造物の保存が訴えられ始めていた。

陸軍省が城郭建物を売却しようとしていた明治五年、町田久成(注7)と世古延世(注8)は、参議大隈重信宛に名古屋城をはじめとする城郭建築の保存を提言したのである。同じ年、名古屋城を見学したドイツ公使マックス・フォン・ブラント(注9)ら外国人から指摘を受け、愛知県権令・井関盛良(注10)も、陸軍省への引き渡しに当たって、名古屋城の建造物の保存を訴えている。

これらの提言が功を奏したためか、明治五年の後半には、城郭の取り扱いについては陸軍省の一存ではなく、政府全体の判断によって取り扱うことが定められたのである(注11)。

この時期、鳥取城をめぐる情勢は大きく動いている。

まず、明治四年十月二十日、県庁が城外に移された(注12)。翌五年には、上述したように、全国の他城郭と同様、陸軍省の指示を受けて、不要な建物を公売にかけることとなった。

この間、中央の町田たちとは独立して、主体的に鳥取城を保存しようとする動きがあった。初代権令となった河田景與は、明治五年七月、陸軍省に対して、扇邸(現在の仁風閣の場所)を高値で売却するかわり、鳥取城の大部分をそのまま県が借用することを願い出ている。

しかし、この河田の申請は却下され(しかもほぼ同じ時期に河田は権令を免職となっている)、その約十日後、鳥取県は米子城・諸陣屋とともに「鳥取城内三ケ所」を公売に付すことを陸軍に届け出ている。県はこの届出の中で、八橋郡六尾にあった反射炉建物を従来の管理者に払下げることを申請しているが、陸軍はこれも却下し、入札とするよう指示した。

この時の入札のうち、少なくとも「鳥取城内三ケ所」の公売は最終的には成立しておらず、米子城も大蔵省所管となって明治一二年頃まで建物が現存していたことから、やはりこの時には売却されていないことが分かる。

これは、上述した国の方針転換により、陸軍の指示した公売が無効となったためである。

その後の「廃城令」に際しては、鳥取城は「存城」として引き続き陸軍省に所管されることとなった。陸軍省はまず明治六年に建物の状態について調査を行い、鳥取城の建物のうち、保存すべきものとそうでないものの分別を行った。

この時、門櫓や土塀の大部分は不要とされ、明治八年度中までに撤去された(門櫓や土塀の具体的な入札・取り壊しの文書は残っていないが、明治八年の陸軍年報から、かなり多数の建物が実際に解体撤去されたことを読み取ることができる)。

しかしながら、土蔵や御殿、三階櫓等の大型の建造物は、兵営などの施設として使用できると判断され、当面修復・管理することとなった。

その後、佐賀の乱・西南戦争の勃発の際、不平士族の動きを警戒した鳥取県が、陸軍省に分遣隊の派遣を要請したため、鳥取城は実際に分遣隊の兵営として使用されることとなった。明治十年、分遣隊の基地としてして鳥取城の既存建物の改修が行われたが、予算書からみて、比較的大規模な改修だったようである。

なお、この間の明治九年に鳥取県は一時廃止され、明治十四年まで島根県に併合されている。

西南戦争の終結と、不平士族の鎮静化のため、明治十一年に鳥取分遣隊の撤収が決まった。このため、基地として使っていた鳥取城の建物は不要となり、売却されることになった。明治十一年十二月に、建造物の処分を前提に兵営用の什器備品の鳥取城からの搬出・払下げが行われている。明治十三年には既に空地の貸し出しが行われていることから、解体撤去は年内に完了したようである。これを惜しんだ有志が、鳥取市出身の写真師・喜多村勘四郎を姫路より招き、二ノ丸三階櫓等の写真を撮影した(注13)。現存する鳥取城の写真のうち、土塀・門櫓等を欠く比較的鮮明なものはこの時撮影されたものである(従来、鳥取城の写真はすべてこの時のものとされてきたが、若干古い時期に撮影されたものも含まれている)。

鳥取城では、御殿や大型の櫓は明治十一年末までは健在だったのである。

鳥取城の場合、不用と思われる文書が島根県から鳥取県に引き継がれなかったためか、この時の解体の経緯や入札結果を示す史料が乏しい。継続して雇用されている番人についての文書が鳥取県立公文書館に所蔵されている程度である(注14)。

陸軍所管時代の鳥取城

明治十年代初頭を過ぎると、近世城郭は実用的な軍事拠点とは見なされなくなり、町田久成らのように城郭を文化遺産としての評価する視点が、上述したブラントや中村重遠(注15)らの尽力もあって次第に確立されるようになっていたようである。

明治十四年に大蔵省が「廃城」の払い下げを行う際にも、「旧跡保存又ハ風致ニ関スルノ類ニヨリ其破壊ヲ歎惜スル分ハ維持ノ方法等人民ノ適宜ニ任セ」ることとし、消極的ながらも保存の意義を認めている。

工兵大佐中村重遠を擁する陸軍省は、大蔵省以上に城郭の保存を意識するようになっており、名古屋城・姫路城については、「以往有用ノ目途無之」にも関わらず明治十二年に軍の予算で建造物に修復を加えている。また、明治一九年に再度入手した松山城については、明治二〇年に県が放置していたために劣化していた天守の修理も行っている。少なくとも、積極的な破壊はもはや行われず、必要に応じて、陸軍自身が城郭建造物の維持修理を行っているのである。

鳥取城についても、三階櫓や御殿の撤去された後の明治十三年、跡地と思われる土地を陸軍省が民間に貸し出しているが、その際にも、恒久的な建物の建築や地形の改変を制限している。

しかし、軍事目的で使用できない城郭・城郭跡の保存は陸軍省にとっては大きな負担となっていた。県に管理を委託していた多くの地方の城郭の経費も、陸軍省負担となっていた。

軍事用地といいながら、民間人の居住や学校等公共施設用地として使用される事例も少なくなく、明治二二年になると、陸軍省は一部例外を除き、近世城郭跡の土地を含む払い下げを計画するようになる。

池田家への払下と久松公園の成立

 陸軍は不要となった城郭の売却は、本来入札・公売に付すべき事案であったが、城郭の保存を念頭に置く陸軍省は、旧藩主への優先的な払下げを計画する。この計画は明治二二年度内に限って認められたようで、鳥取城のほかにも、いくつかの城郭が旧藩主家によって買い戻されている。これは「古跡の保存」を目的としたもので、これ以上の城郭の破壊・滅失を止めるためのものであった。

 鳥取城と岡山城は、申請書の文面もほぼ同様であり、両池田家で相計って申請したものと思われる。鳥取城については、さらに副申が添えられて、安価での払い下げを要請している。同時に決済となった但馬豊岡の京極家の申請書と比較すると簡潔な申請書となっている。

 この旧藩主への優先払い下げについては、文部省や県からの反発が少なくなかったようである。岡山城では、医科大学(後の岡山大学)が設置されていたため、手続きを巡って文部卿榎本武揚と陸軍卿山縣有朋の間で応酬があった。

 鳥取城では、陸軍からの払い下げを予測した県によって、城内の借地の整理がすすめられていた。鳥取県としては、師範学校が併設されて手狭になった中学校の用地を探しており、おそらくそれを念頭において調整していたものと思われる。鳥取県は明治二二年に陸軍省に学校用地の無償貸与を申請して許可され、中学校校舎の建設を開始した。しかし、鳥取池田家がその土地も含めて購入することとなったため、用地の取り扱いが後々問題となってくる。『鳥取西高等学校百年史』によれば、明治三二に池田家から突然校地の返却を求められたというが(注16)、これは陸軍時代から続く無償貸借契約の期限切れを機会としたものだったと思われる。この後、池田家と鳥取県は有償での借地契約を締結し、借用期限ごとに五年契約の契約書を取り交わすこととなった。

 これは、広大な城郭跡地を公共用地として活用したい地元側と、文化遺産的な位置づけで保存したい中央側の思惑の双方をある程度満たす案であったといえる。

 池田家は、払下げを受けたのち、私有地であることから、鳥取城への一般市民の立ち入りを制限していた。しかし、市民の間では、都市の顔ともいえる鳥取城の利用の希望が強くあり、池田家もその声にある程度は応えている。

 たとえば、明治四十年には、皇太子行啓の宿舎として仁風閣が建築されているが、これは池田家が私邸として費用を負担し提供したものであった(その後の大正十一年、建物の保存を条件に建物は鳥取県に寄附され、土地の無償貸与の契約を取り交わしている)。また、鉄道山陰線の開通記念式典等、大きなイベントの際には、会場としても提供された。

 大正時代に入り、久松山の公園化についての要望が高まると、当時の当主・池田仲博は地元の声に応えて資金を提供し、城代屋敷、米蔵跡、二ノ丸跡の範囲を遊園地として整備することとした。「久松遊園地」の呼称は池田家側からの提案であり、あくまで私有地であることから当初は「公園」の呼称を許さなかったものと思われる。この時の公園の基本設計は明治神宮外苑の設計者として知られる折下吉延で、城代屋敷跡については段差を削平してグラウンドを設置しているものの、極力旧状を維持する設計としている。

 この公園は、池田家が出資し、鳥取県が施工・設計監理を行って工事を完成させた後、鳥取市に引き渡され、以後公園の管理運営にあたることなった。

 久松公園が整備され、利用者が増えるにつれ、市民の久松山開放の声はさらに高まり、市会でもたびたび要望が上がるようになる。若手の政財界人の集まる鳥取会などが中心となって池田家と協議した結果、昭和 年に池田家は全山解放を許可することとなった。

 そして、昭和一八年の鳥取大震災を経て、昭和一九年、旧藩主池田家は、ついに鳥取城跡全体を鳥取市に寄贈することとなる。鳥取大震災一周年を記念して寄贈するという名目であった。なお、池田家は、寄贈に際し古跡の保存を条件としており、陸軍省から取得した際と姿勢は一貫している。

 当初は県に建物を寄贈した仁風閣、及び有料の賃借契約を結んでいた鳥取第一中学校用地については市への寄贈から除外することになっていたようだが、最終的にはまとめて市に寄贈することとなった。県がこれらの土地の寄贈を要望していたが、何らかの理由で池田家が県への寄贈に同意しなかったためである。県は池田家への要望書を廃案とした後、市に当該地の県への寄贈を求めているが、市の同意も得られなかったようで、現在まで仁風閣及び鳥取第一中学校の土地は鳥取市有となっている。

まとめ

 以上みてきたように、鳥取城及び城郭の取り扱いは、その都度きわめて実際的な理由で方針が決められてきたものであり、破却された城についても、巷間言われるような「明治新政府による幕府体制の否定」を主目的として壊されたわけではない。その後の用地の変遷についても、旧藩主池田家が「古跡の保存」を常に気にかけている点を除けば、きわめて合理的な理由に基づくものであって、情緒的な要素はほとんど見られない。

 明治四年の廃藩置県までの新政府は「藩主の権威の否定」を意図して実行させる余力も能力も持ち合わせていなかったし、それ以降は財政などの政府内の事情で取り扱い方針が定められていたのである。むしろ、「従来の権威の否定」といった事柄は、関係者以外の、建造物の消滅等を見た人々が感じたものであり、結果的なものだったと考えられる。

 また、城郭の破壊の進行と並行するように、文化財としての城郭建造物という視点も次第に一般化しており、保存される可能性は年を追うごとに高まっていた。

(注)

1.森山英一『明治維新 廃城一覧』(新人物往来社、一九八九)

2.たとえば、森山英一「旧陸軍における城郭管理の変遷と築城史研究の沿革について」(関西城郭研究会『城』一四六、一九九四)、広瀬繁明「日本城郭の検証から保存へ―明治維新以降の城郭認識の視点から―」(織豊期城郭研究会『織豊城郭』十号、二〇〇三)、堀田浩之「近代の姫路城に関する覚書―鳥羽正雄コレクションの資料紹介を兼ねて―」(兵庫県立歴史博物館『塵界』一五、二〇〇四)などの成果がある。また、『姫路市史』一四巻「別編 姫路城」など、自治体史でも個別城郭の近代史は取り上げられている。

3.仙台城、萩城などが典型的な廃棄城郭である。

4.幕末から藩主小出家は城郭改修を願い出ていたが、慶応四年(一八六八年)一月二八日に明治政府が陣屋改修を許可した。

5.『史跡名勝天然記念物』第十九集第六・七合併号(昭和十九年)所載

6.『鳥取県歴史』三(政治部 県治)国立公文書館所蔵

7.天保九(一八三八)~明治三〇(一八九七)。薩摩藩出身で、慶応元年英国留学の経験がある。初代東京帝室博物館長を務めるなど、近代初期の文化財行政に大きく貢献している。

8.文政七年(一八二四)~ 明治九年(一八七六)。紀州出身の国学者・勤王運動家。

9.Maximilian August Scipio von Brandt。一八三五~一九二〇。万延元年(一八六〇)、日普修好通商条約調印のために来日したプロイセン使節団の武官を務める。文久二年(一八六二)から明治八年(一八七五)まで駐日代理公使・全権公使を歴任した。その後も、清国大使などを務めた。当時有数の東アジア学者と目されており、多数の著書を著したほか、東洋美術品の収集も行った。名古屋城を視察した時点で在日一〇年ほどであり、日本文化についてもある程度理解していたと思われる。工兵大佐中村重遠とともに、名古屋城の保存を政府に働きかけ、天守・御殿の保存を陸軍省に認めさせている。

10.天保六年(一八三五)~明治二三年(一八九〇)。神奈川県権知事、名古屋県権令、島根県令等を務める。

11.ただしこの陸軍省達が実際に決済され、施行されたかどうかは、『太政類典』の記載からは判然としない。

12.前掲『鳥取県史料』三。

13.従来、鳥取城の建造物の古写真はこの時喜多村がすべて撮影したものと考えられてきたが、被写体の状態や判型に異同があり、「池田侯爵家旧蔵」として『鳥取県郷土史』に掲載されている写真などはより古い時期のものと思われる。

14.本書には収録できなかったが、兵庫県立歴史博物館所蔵鳥羽正雄コレクション中に、明治一〇年から一三年にかけての鳥取城の調書が含まれており、建造物の状況が把握できる。明治八年に解体されたのは、天球丸・二ノ丸の櫓を除く建物で、三ノ丸の建物は改修され、明治一一年末まで兵営として実用に供されていた。

15.中村進一郎ともいう。天保一一年(一八四〇)~ 明治一七(一八八四)。姫路城、名古屋城の建造物保存に、軍人の立場で取り組み、工兵第一方面提理などの職にあって、省有城郭の管理方針にも関与した。

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