鳥取の権現祭 ―池田仲博の十二葉から―

(『鳥取文芸』33号、2011掲載)

             佐々木 孝文

 鳥取の権現祭については、すでに中村忠文氏をはじめ、多くの先学による著述がある。鳥取東照宮の成立の経緯や権現祭の歴史、祭礼行列を特徴付ける麒麟獅子舞などについてはより詳しくそちらで触れられおり、詳細はそちらをご覧いただくに如かないので、本稿では、本筋から少し離れて、近代の権現祭、特に祭礼行列をめぐるエピソードを紹介することにしたい。

 さて、「権現祭」でいう「権現」とは、神仏習合時代の、仏が仮の姿をとって現れた神を指す。三朝の三仏寺などで祀られる蔵王権現、秋葉権現などの名を耳にされたことはあるのではないだろうか。これらの多くは、明治の神仏分離令以前は、神式・仏式の混交した形で祀られていた。

 鳥取の権現祭でいう「権現」は、「東照大権現」である。日光東照宮、久能山東照宮などで知られるこの神は、江戸幕府の開祖・徳川家康を(当時の)天台宗の教義をもとに神格化したものである。時の権力者としては、豊臣秀吉が豊国大明神として神格化された例があるが、東照大権現の場合、それより格段に制度が整備されており、また全国的に数多く勧請され、百三十社程度が現存しているという。江戸時代において東照宮を祀ることは、江戸幕府、徳川家への恭順を示すと同時に、自家の権威を高めることでもあったので、諸大名によって熱心に勧請されたのである。

 現在、樗谿神社となっている鳥取東照宮は、初代藩主・池田光仲が徳川家康の外孫にあたることから、他所とくらべても重要なものの一つであったと考えられる。一説には、因幡一円に残る麒麟獅子舞は、この東照宮祭礼……権現祭の行列の獅子舞を起源とするというが、これも権現祭が地域に与えた影響の大きさの証左ともいえるだろう。この華やかな行列の姿は鳥取県立博物館所蔵のものなど、数点の絵巻物に描き残されている。

 東照宮の完成に合わせ、慶安三年九月十七日に初めて執り行われた権現祭の様子を、近世前期の儒医・小泉友賢は次のように記している。

「国中貴賤男女方々ヨリ集リ、是ヲ拝セントテ神輿ノ通路家々ニ満チ、小路々々ニ立塞リ、幾千万ト云ヒ計リ難シ。誠ニ厳重如在ノ祭礼、世ニ希成ル壮観……」(『因幡民談』)

 単に行列が華やかなだけでなく、見物人も多く集まる、文字通りの大祭であった。これ以降、祭礼行列は九月十七日に執り行われる通例となった。

 このように、鳥取を代表する大祭だった権現祭であるが、江戸幕府の開祖・家康を祭神とする故に、明治維新後東照宮自体がひどく衰退したため、祭りも途絶してしまったようである。当時の史料には、次のように書かれている。

「旧藩祖ノ三霊ヲ県社長田神社ニ附属セシ東照宮ニ合祀シ、更ニ樗谿神社ト称シ、県社ニ列ス。……然ルニ、鳥取上町ノ内、樗谿ニアル旧藩所祭ノ東照宮ハ、即今、県社長田神社ニ附属シ、祭主・氏子モ無之、追年替廃ニ至ン。茲ニ三霊ヲ合祀シ、樗谿神社ト改称シ、自今、氏神同様永ク祭奠ヲ執行セン」(『鳥取県史料』四、明治七年四月一日条)

 この時代、神主も不在になっていた東照宮は、長田神社に付属する神社となっていた。氏子もおらず、荒廃する一方であったため、心ある人たちは光仲をはじめとする鳥取藩主を合祀して「樗谿神社」とし、氏神同様として守っていこうとしたのである。

 記録によれば、島根県との併合以前は、明治維新後もしばらく東照宮の祭祀自体は行われていたが、祭礼の行列はかなり早い時期に行われなくなっていたようである。神仏混淆の祭礼であることも、神仏分離政策などによって神道を確立しようとしていた明治新政府の方針もあって、東照宮の別当寺院であった大雲院も樗谿から立川に移転された(このため、現在でも天台宗の教義に基づく祭礼具は大雲院が、神式の祭礼具は樗谿神社が所蔵している)。

 ところで、鳥取県立図書館に、とある写真絵葉書帖が収蔵されている。

 これは、皇太子・明宮嘉仁親王(後の大正天皇)の鳥取来訪を記念して製作されたもので、冊子に印刷された凡例によれば、関係者(奉迎委員)に頒布されている。

 この絵葉書には、明治四十年五月十八日に行われた「権現祭の行列」が写した写真が使用されている。

 本来、鳥取東照宮の祭礼は四月と九月であり、この行列は季節外れであり、皇太子の鳥取来訪を受けて行われたものであることがわかる。

 これらの写真は、すべて(若干カメラの首は振ってはいるようだが)ほぼ固定されたアングルで、明治前期に建造物が撤去された鳥取城の内堀に向かって撮影されている。

 このようなアングルになっている理由は、この写真の撮影者が、鳥取藩主池田家の後継者・池田仲博侯爵その人だからである。

 この写真にも映り込んでいる皇太子の宿舎・仁風閣は、当時池田家の所有していた鳥取城跡に、池田家の資金で建てられたものである。いかに旧所領とはいえ、池田仲博は皇太子行啓の最大の功労者であったといえるだろう。

 これらの写真は、その池田仲博が、身動きできなかったであろう貴賓席で、わずかにカメラの首を振りながら懸命に撮影したのものである。仲博の立場と当時のカメラの性能を考えれば、動く行列をかなり鮮明に撮影していることだけでも充分驚きに値しよう。また、洋行経験もある仲博の、あたらしもの好きな一面が垣間見える写真でもある。

 仲博自身の心中は計りようがないが、この写真は同時に、奇妙な歴史的偶然の産物にもなっている。

 上述したように、鳥取藩が東照宮を勧請したのは、家康の外孫である初代鳥取藩主・池田光仲の時代、慶安三年のことである。光仲は、東京・上野の東照宮にも灯籠を寄進しており、家康の血を引く大名として、東照宮を崇敬する意思を明確に示していた。鳥取県立博物館に現存している光仲の肖像も、東照神君・家康の姿を彷彿させるものであり、家康との血縁へのこだわりを感じさせるものとなっている。

 同族であり、宗家でもある岡山藩主池田家に対して、初代鳥取藩主光仲は、徳川家との近縁性を以て対等以上の立場に立とうとしたのであろう。

 しかし、池田仲博は、池田光仲にはじまる鳥取藩主池田家の直系の子孫ではない。むしろ、東照宮とはそれ以上の繋がりを持った人物なのである。

 鳥取池田家は、慶徳の先々代にあたる慶行の時、すでに血縁上の藩主後継者が絶えていた。家の存続を図るため、池田家は加賀前田家から養子として慶栄を迎えた。実質的にはこのときに、鳥取藩主の座は、光仲の直系子孫(鳥取池田家及びその控えとしての東館・西館池田家)の手を離れてしまっている。

 ところが、せっかく養子に迎えた慶栄も、後継者に恵まれないまま早世してしまった。そのため、池田家の後継者は再び他家から迎えられることとなり、政治的理由もあって、水戸藩主・徳川斉昭の五男が養子として迎えられた。その人物こそ、最後の征夷大将軍・徳川慶喜の兄で、江戸時代最後の鳥取藩主となる池田慶徳であった。

 この慶徳の血も、明治維新後、慶徳の跡を襲った実子・輝知が、明治二十三年に三十歳で早世してしまったため、結局途絶えることになる。

 そしてこのとき、後継者として養子に迎えられたのが、徳川慶喜の五男・仲博だったのである。

 そのような立場の池田仲博からみた権現祭の行列は、江戸時代の祭礼行列の復活であると同時に、自身の偉大な先祖・徳川家康を神として祀っていた、江戸時代の再現でもあった筈である。

 明治十年生まれ、明治二十三年に池田家を継いだ仲博はこのとき三十歳、おそらく初めて見る権現祭の行列だったと思われる。

 幕藩体制の記憶が遠くなる中、絶対的な権力者であった祖先を祀るはずの祭礼が余興として復興され、しかも自分が写真を撮影しているという因縁に対して、仲博がどのような感慨をもっていたのかについては、残念ながらよく分からない。

 

 池田仲博侯爵とは別の場所で、同時にこの祭礼行列を眺めていた、鳥取と奇縁をもつ人物がもう一人いる。

 他ならぬ主客、皇太子・嘉仁親王である。

 嘉仁皇太子と鳥取の奇縁は、皇太子の実母・柳原愛子を通じてもたらされたものである。

 皇太子の実母で、明治天皇の女官であった柳原愛子は、鎌倉時代に日野家から分かれた公家・柳原家の出身であった。

 柳原家は、重要な所領のひとつを因幡国にもっていた。室町時代の後期、他の所領の多くを失った柳原家は、資綱・量光・資定の三代にわたって、京を離れて因幡国に拠点を置き、所領の経営に当たった。もっとも、柳原家は朝廷においても重鎮の一家であったため、因幡国を本拠としながらも、朝廷の月次行事には上京して参加するなどしていた。因幡国では拠点を現在の鳥取市百谷に置いていたと考えられ、因幡での墓所も、近年まで同所に現存していた。

 その後、都に復帰した柳原家は、江戸時代には武家伝奏や議奏など朝廷の公務にも従事しており、愛子の父・柳原光愛や兄・柳原前光は、政治・行政面でも活躍している。前光の娘には歌人の柳原白蓮(燁子)がおり、家業を文学とした家としての片鱗も窺える。

 柳原愛子はそのような家に生まれ、明治天皇に女官として仕え、皇子を産むことになった。明治天皇の時代には、皇室にはまだ側室の制度があったが、他の皇子たちがいずれも短命だったため、柳原愛子の子・嘉仁親王が皇太子となったのである。嘉仁親王も、必ずしも健康に恵まれた生涯を送ることができたわけではないが、昭和天皇に天皇の位を引き継ぐことができたのは、ひとえに柳原愛子の功績と言っても過言ではない。

 このように、天皇家の継続に大きく貢献したにも関わらず、柳原愛子は準皇族という扱いであり、皇居に住むことはなかった。

 また、明治天皇・昭和天皇という、ある意味で偉大すぎる親と子の間で、大正天皇には、ともすれば虚弱で暗愚というイメージが付与されがちである。周知のように、最近の研究では大正天皇に対するこのような一面的な理解は徐々に解消され、むしろ近代的でスマートでフランクな天皇像が浮かび上がってきつつあるが、当時から近年まで、陰に陽に実母である柳原愛子の責任を問う声もあったようである。

 嘉仁皇太子は、柳原愛子が実母であると知らされてもなかなか信じなかったと言われている。とはいうものの、かつて応仁の乱などで都の付近の所領を失い、所領経営のために因幡国に居住した柳原家の血を継ぐとすれば、皇太子も、因幡国の行啓には他所とは違う感慨を抱いたかもしれない。

 先に述べたように、明治四十年に池田仲博と嘉仁皇太子が見た権現祭の行列は、本来の東照宮祭礼としてではなく、皇太子歓迎のために、いわば余興として復興されたものであった。江戸時代であれば考えられないことであり、明治新政府が不安定な時期であれば危険視されたであろう、東照宮=徳川家康の祭りは、明治四十年にはすでに遠い過去のことであった。

 いかに奇縁をもつとはいえ、明治十年代生まれの嘉仁皇太子や池田仲博は、歴史の一コマとして、祭礼行列を興味深く見たに過ぎなかったかもしれない。

 しかし、このときにはまだ、因幡二十士の一人・本部泰など、江戸時代生まれの老人たちも存命であり、往事の東照宮祭礼行列をよく記憶していたようである。現存している神輿以外の祭礼道具の類も、現在より良く残っており、盛時の姿に近い行列の実施が可能だったようである。史料によれば、このときの様子は次のようなものであった。

「鳥取にて権現祭と云へば、封建時代には因伯二州にて又無き盛典なりしとて、在りし昔を回想して感慨を催せる老人、物珍らしき若者打ちませて此の行列を見物せむと、其の沿道に押し寄ずる者幾万なるを知らす。頗る雑踏を極めたり。……其の列は約三丁に亘り器具万端流石大名仕事たるに恥ぢず頗ぶる壮観を極めたり」(角金次郎『山陰道行啓録』明治四十年)

『山陰道行啓録』によれば、このときの行列には、神官や麒麟獅子を含む神楽などのほか、僧侶、大目付・寺社奉行・徒目付のような藩役人姿、町役人姿のものも加わっており、騎馬も含まれていた。江戸時代、藩主を祭主として、城下総動員で行われた姿が再現されていたことになるが、それでも江戸時代の姿には及ばなかったという。また、行進距離が一里(約四キロメートル)に及ぶため、醇風小学校で休息をとったが、その際飲酒が行われて、やや行列が乱れたようである。このようなことも、江戸時代には考えられなかったのではないだろうか。

 明治四十年の権現祭礼行列は、あくまで形としての再現であり、鳥取東照宮の復活や、徳川家康の復権を意味するものではなかった。

 たとえ江戸時代を知る老人たちがおり、道具は本物であったとしても、このときの祭礼行列はあくまで皇太子に差し出された余興であり、もはや江戸時代のように神聖不可侵なものでも、徳川家の復権に繋がる脅威でもなくなっていたのである。だからこそ、祭礼日と無関係な日に、文字通りの祭りとして、祝杯を挙げながら執行され、継続できずに再び中絶したのであろう。

 権現祭とその行列が、有志によって本格的に復興され、継続的に開催されるようになったのは、ごく最近、平成十二年のことである。旧暦九月十七日の祭礼日を基準に、十月十七日前後の休日に催され、鳥取旧城下町の祭りの一つとして定着しつつある。

 権力者のための祭礼から市民のための祭礼へと、伝統を受け継ぎつつ生まれ変わった権現祭の行列は、池田仲博や嘉仁皇太子の見た明治四十年のものと違い、今後も根付いていくのではないだろうか。

 余談だが、権現祭の復興とほぼ同じ頃、鳥取城をしのんで創始され、権現祭同様十月に開催されてきた「三十二万石お城まつり」も、次第に定着しつつある。今後、この二つの祭りが、それぞれの特徴を活かしつつ、長く継続されることを願ってやまない。

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