鳥取城

明治期廃絶城郭の公園化について ―史跡の保存活用の前史として―

  (『鳥取城調査研究年報』第4号所載、2011.3。発表当時、日本海新聞で「久松公園の設計者判明!」と報道していただきました。ここでは試読用に公開しますので、引用等は所載誌をご利用ください。)

1.はじめに 近世城郭跡の用地利用

 鳥取市を例に引くまでもなく、現在の県庁所在市や地方の中核都市の多くは、近世に藩領支配の拠点であった城下町を原型としている。当然、それらの都市の中心部、または重要な地域には、藩主の居所であった近世城郭跡が所在することになる。明治維新によって、藩政の中心としての従来の機能を失った近世城郭の取り扱いは、広大であるだけに、明治初年以降、これらの都市にとって大きな課題となった。

 明治4年7月の廃藩置県までの間、近代的施設には転用しづらい構造の老朽建造物が多数設置され、堀や石垣といった土木施設を伴う近世城郭の維持は、旧藩主にとっての大きな負担となっていた。所謂「廃城令」以前に建物が撤去されたり管理が放棄したりした城は、戊辰戦争による破壊とあわせて50以上に及んでおり、特に親藩・譜代大名の城では放棄される例が少なくなかったことからも、そのことは明白である。

 廃藩置県後、明治政府は、明治6年1月14日の太政官達によって、軍事施設として利用可能なものを選別して陸軍省の所管とし、それ以外のものを大蔵省所管とした。これが所謂廃城令であり、56の城郭が存置(新築9)とされ、200以上の城郭・陣屋が廃止された。大蔵省は廃止城郭の建物・木石等の価格調査を実施し、財源として売却を計った。建物も売却対象となっており、文化史的価値を認められた姫路城や名古屋城などの一部の城郭を除いて、多層櫓などの建造物が、不要建築として解体撤去・売却されている。翌明治7年には旧城郭は内務省の所管に移され、以後、軍事施設としての存置の城は陸軍省が、廃止城郭のうち公有地となった部分は内務省が所管することとなった。さらにその後、鳥取城跡のように、軍制の整備に伴って不要となる城郭が生じ、明治22年~23年に旧藩主を中心に払い下げが行われた。

 この間、建物が撤去されただけでなく、城郭跡の敷地についても、様々な利用方法が試みられた。建造物の価値が認められた城であっても、城郭の縄張り全体の保存までは意識されることが少なかった時代であり、堀の埋設や石垣の撤去などの改変が行われた城も少なくないと思われる。桑名城跡のように、石垣が解体され、堤防の材料に転用されている事例もみられる。

 このような扱いが、文化財としての近世城郭の保存に大きな影響を与えたことはいうまでもない。結果的に、「城跡は官公庁の諸施設用地などに利用され、車社会の到来に伴って城内は都市計画道路の貫通により、本丸、二の丸、三の丸、重臣の居住地区や堀などの遺構も含めて、確認できない程度まで改変された事例も多い」現状につながっているとも言えるだろう*1。

 廃止された近世城郭の利用方法のうち、ごく早い時期からひろく行われていたのが、公園としての利用である。

 日本の近代公園の歴史は、明治6年1月15日に公布された公園設置に関する太政官布達を端緒とするが、高橋理喜男によれば、この太政官布達に基づいて設置された公園は、明治20年までに82ヶ所存在し、そのうち30ヶ所は旧城郭を公園化したものであるという*2。日本の近代公園の草創期における城郭跡利用の重要性は、この数だけからでも明らかであろう。

 また、近世城下町を起源とする都市において、現在でも「中央公園」として機能している近世城郭跡が多いことは、すでに多くの先学によって指摘されている。

 俵浩三は、「①都心部に近い、②大面積である、③歴史が古い、の3条件を満たし、その都市の象徴的公園(有料公開を含む)となっているもの」を「中央公園として選定した」場合、県庁所在市46都市にある66公園がそれにあたり、さらにそのうち33ヶ所が城跡または旧藩主の庭園を起源としており、「城跡公園型は中央公園としてきわめて有利な条件をもっている」という(なお、俵が検討対象とした県庁所在市46都市のうち、33都市が城下町起源である)*3。

 一方、文化財保護の歴史の上でも、このことは大きな意味を持っている。

 西村幸夫は、「公園の設置を定めた1873(明治6)年の太政官布達の文中にすでに公園として定めるべき地所の例として「古来ノ勝区名人ノ旧跡」があげられて」おり、「1878(明治11)年に名古屋城保存のために愛知県から内務省にあてた上申書のなかに城郭保存の理由について「古来ノ勝区ハ永遠ニ保存セラルル今日」と当時の旧物保存の風潮が強調されている」ことを指摘している。公園化は、まだ方針の定まっていない中で試みられた、多様な文化財保護のありかたの一つでもあったのである*4。西村の指摘に加えて、「廃城令」と呼ばれる太政官達が公布されたのが明治6年1月14日であり、公園設置についての太政官布達が翌日の1月15日に出されていることを考慮するならば、政府の念頭には城郭跡が公園用地として念頭にあったのではないかと考えられる。

 このような公園整備と近世城郭跡の関係については、比較的古くから注目されてきているが、それが遺構の保存等への具体的な影響についての研究は、さほど多くない。近年でこそ地域史の立場からの太田秀春*5・平井誠*6らの一連の研究があるものの、従来近世城郭跡に関する近代史の研究自体がさほど盛んではなかった。そのためもあり、徐旺佑*7の研究を除けば、公園史と城郭史を関連づけた研究はあまり進んでいないように思われる*8。大阪城公園についての橋寺知子の研究*9など、個別の城跡を扱ったものも散見する程度であり、公園整備が近世城郭跡の保存に与えた影響を考えれば、決して充分なものではない。

 本稿では、この問題意識を踏まえた上で、近世城郭跡の保存と公園化・公園整備の関係について、まだ文化財保存と公園整備の理念が未分化であった時期(明治後期~大正時代)に多数の城郭跡の公園設計に関与した長岡安平・本多静六の業績をもとに、公園化が近世城郭跡の保存に果たした役割を再確認する。それとともに、鳥取城跡に設置された久松公園を事例として、近代公園の設計思想・史蹟名勝天然紀念物の保存思想がある程度成熟しつつあった大正後期の状況を確認し、文化財と公園という異なる理念の確立が、結果として遺構に与えた影響について考えたい。

2.長岡安平と本多静六

 高知城跡(明治6年公園開設)を皮切りに、明治6年の太政官布達16号の趣旨に沿って明治20年までに公園化された城郭跡は約30にのぼる。太政官公園と呼ばれるこれらの公園は、当初、草刈り程度の簡単な整備を施した上で公開されたようだが、次第に公園としての機能を向上させるための整備が計画されるようになっていった。高知城跡や高岡城跡(明治8年開設。高岡城は江戸時代前期に廃城されたが、古城として明治維新まで城郭機能の一部が存続)などは、明治初年の開設の段階から比較的順調に利用が進んでいたが、富山城跡(明治15年公園開設)のように、管理方法を定めていなかったため開園早々荒廃が指摘されるものもあった。いずれにせよ、官有の遊休地としての城郭を拙速に公園化したのが端緒であり、都市における公園の意義が明確になるにつれ、機能を充足させるための計画的整備が必要となったのである。この再整備の流れは、明治29年の千秋公園を皮切りとして、昭和初期まで続くが、その主な担い手となったのは、造園家・長岡安平と林学者の本多静六である。この時期の城郭公園のうち、筆者が設計者を把握しているのは18カ所である*10が、そのうち6公園の整備に長岡が、7公園の整備に本多が関与している。2人あわせて13カ所の整備に関係したことになり、近世城郭跡の本格的な公園整備に関する、長岡と本多の影響力は相当に大きかったと思われる。戦前における城郭跡の公園化の枠組は、彼らの公園思想の影響を大なり小なり受けているとさえいえよう。

 祖庭と号した長岡安平(1842~1925)は、長崎県の大村藩出身の造園家で、独学で造園の基礎を学び、近代公園の祖の一人となった。子の一人に、モダニズム文学の作家・ささき ふさがいる。長岡が生涯に手がけた公園・庭園はあわせて60件以上、その他に天然記念物や史跡の保存にも尽力した人物である*11。長岡の公園デザインの特質については、先に述べた徐旺佑の論のほか、津田礼子の研究*12がある。

 徐によれば、長岡の公園設計の特色は次のようなものである。

「盛岡城や明石城、高知城などから、長岡安平の計画を要約すると、

ア)城郭を遊園、散策する対象に基づいて、区域を分け、梅林や桃林などの植樹から、並木・花壇までの計画となっている。

イ)盛岡城跡と高知城跡では、共に洋風庭園と石垣上部の防藪と植樹計画が確認できる。土塁に上がる石の階段の設置もみられる。

ウ)運動場や芝広場を計画し、新しい遠路に休憩所、便所、腰掛などの公園施設を設置している」

 そして、「これらの近世城郭跡にみえる現在の公園施設はこの頃の計画を基に現在まで至ったと考えられる。近世城郭跡に本来と違う植樹計画や園路、石垣上面に登る石段などもこの頃の設置を引き継ぐものと思われる」としている。

 一方津田は、長岡安平の唯一のまとまった公園論『祖庭 長岡安平翁造庭遺稿』、及び現存する設計書『臺遊園設計書』を下敷きに、現地踏査を行って、長岡の造園デザインの特質を「逍遥的景観」にあるとし、「自然の地形を極力生かし、有効にして最小限の人為を加える設計」が特徴であるという。津田は「自然の地形」と限定しているが、東京都緑の情報センターに現存する長岡の公園設計図を見る限り、城郭跡の遺構についても長岡の姿勢は同様であったと考えられる。

 本多静六の公園設計の特徴についても、徐が先掲論文の中で紹介している。

「「若松公園設計方針」は、歴史的記念物(史跡)の保存と遊園地(都市公園)としての整備という二つの目的が共存することを設計の方針としている。

 しかし、石垣は散策路の安全のための復旧や修理が行われたのみで、天守閣跡等も従来のままであり、積極的な復旧保存の処理などの措置が行われなかった。具体的には、歴史的記念物である城の堀、石垣、見附、天守閣跡等は旧状のままに保存し、記念物として保存する必要のない小部分の石垣に限り、遊園地としての必要に応じて撤去することで、改良後であっても旧形状が想像できるように計画していると記録されている。」

 徐はこれらの分析を通じて、長岡や本多の公園整備について、

「これらは1903年に最初の洋式公園として開園した日比谷公園の後に計画されたものであり……この頃から洋式公園が近世城郭跡の公園化に取り入れられるようになり、本格的な公園整備や管理が行われるようになったと考えられる……本多静六、長岡安平など、近代の公園計画者による設計は閉鎖的な城郭空間に新たな利用方向を与えたが、一方で城郭本来の形態や空間の特徴を変化させてしまった……近代的な公園としての整備は保護の手法のひとつになったものの、史跡としての整備が終わったといえるところは極めて少ない」

と結論づけており、公園としての整備が近世城郭跡の保存に一定の役割を果たしたことを認めつつも、用途の違いによる形態や空間の変質をもたらす不十分なものであったとする。

 徐の「近世城郭の保存と保護は、その本質を見極め、整備と活用の方法などもそれに伴って変容してきたことを把握したうえで、今後の保存整備計画を確立していく必要があろう」という指摘は的確であるが、公園整備が史跡の保存に果たした役割の評価としては不十分である。

 長岡、本多の双方に薫陶を受けた造園家の井下清は、すでに昭和初期に史蹟名勝天然紀年物法による保存の取り組みに対する疑義を投げかけ、保存手法としての公園整備の有効性を主張している。井下は、調査研究と標識などによる啓蒙によって事たれりとする当時の保存事業を、実効を伴わないものとして批判し、「保存には他の力を排除するに足る力と資を必要とする」*13とした。

 井下のいうように、用地をある程度包括的に保全し、開発を抑制したという面で、明治6年以来の公園事業が、「予算の極めて少ない文化財保存事業」を補完する役割を果たしたことは疑う余地がない。

 加えて、長岡・本多とも、近世城跡を単に公園用地として位置づけていたわけではない。

 赤坂信*14は、上述した井下清の史蹟名勝天然記念物事業に対する批判を詳細に検討しているが、井下は東京市の史跡等の保存事業を3期に分け、その第1期(明治44年の史蹟名勝天然紀念物保存協会設立までの時代)を「長岡安平の努力時代」と位置づけている。長岡は浅草観音堂及びその付帯門塔の保護、芝公園内で発見された古墳の調査(坪井正五郎に委嘱)したほか、浅草・芝・深川・麹町・飛鳥山公園の歴史的建造物や老木、古碑の調査や修理を行い、保存協会設立・史蹟名勝天然記念物法施行以前の、文化財保護の先駆者であった。井下は、この長岡のとりくみを高く評価するとともに、「博物館の管理の上に在り多くの学者専門家の権限内に在ったに関らず…上代の古墳、碑石其他遺構」がほとんど失われた上野公園の事例を挙げて対比している。

 また、本多静六の史跡に対する考え方については、遠山益や渋谷克美*15による詳細な研究がある。遠山によれば、「本多が引き受けた公園設置の目的等を考察すると、大正時代前期までは全くそれに触れていない。たとえば大正6年、福島県の「若松公園設計案」の緒言は十行足らずの短いもので、その中でも公園設置の目的は全く記されていない。しかし大正中期の公園計画案には、一般的な公園の必要性と目的とが記されるようになる。……大正末期になると、公園設計案の緒言の中に、本多の人生哲学から生まれた彼独自の公園設置の思想が、強く明記されるようになる」*16という。そして、その公園設置の思想は「関わった公園の多くは、城址、寺社境内、景勝地などであるから、設計にあたっては、その地の自然の地勢、気候、風土はもちろんのこと、歴史、伝説、さらに住民の人情、風俗、習慣、経済状態など該博な知識が必要」というものであった。こういった公園思想がまだ確立されていなかった若松公園の設計の時点でさえ、本多は「歴史的記念物である城の堀、石垣、見附、天守閣跡等は旧状のままに保存」し、「改良後であっても旧形状が想像できる」ことを念頭に置いた計画がなされている点にも注目したい。

 初期の公園設計者が、古跡の保存にかなりのウェイトを置いていたことは、従来以上に評価されるべきである。考古学的視点から遺構をどのように評価するかという視点が欠けているのは、そもそも明治初年まで機能していた施設であることをも勘案すればやむをえない時代性である。古跡の保存を前提に、最低限の改造を加えて公園としての活用を図ること、それによってまとまった土地としての城郭跡を保全することは、戦前において実効力をもつほぼ唯一の手法であった。

 また、公園そのものの意義が未確定であったことは、保存手法としてはむしろ有利に働いたものと思われる。そのために、公園としての機能要求に先んじて、古跡であること、その保存を計ることが最初から課題として取り込まれることになったと考えられるからである。遺構に対する考え方などの文化財学的視点の未熟さはさておき、これに現在の史跡整備・活用の視点の萌芽をみることもできるのではないだろうか。西村幸夫は、このような状況を「こうした多様な保護施策とその背景にある理念の整理・統合が明治後期以降の主として土地にまつわる歴史的な事象を中心とする文化財保護行政および文化財保護運動にとってひとつの主要な課題となっていった。ここから史蹟名勝天然紀年物保存法のいう「史蹟」への道のりはそれほど遠くない」と評価している。しかし、文化財保護行政および文化財保護運動の確立と平行して、公園行政及び公園設計思想も確立されていったことを見逃すことはできない。未分化な状態で行われていた城郭跡の公園化は、文化財保護と公園利用の理念が確立されるに従って、文化財と公園施設に分節されてゆくことになるからである。

 

3.折下吉延と鳥取城跡

 上で述べたように、明治後期から大正時代にかけて、本多や長岡によって城郭公園の基本的な整備手法は確立されたが、それと平行して、都市の中央公園に対する理念が成熟し、さらに、都市計画の中での位置づけも確立されていった。日比谷公園や明治神宮内苑・外苑の整備を通じて、洋風近代公園のノウハウも蓄積され、後藤新平の都市研究会の取り組みによって、都市計画の枠組みも整理されつつあった。公園史の側からみた場合、太政官公園の設置は明治20年代に終息し、大正・昭和期には都市計画に沿った公園配置が進められていくことになる。東京での、明治36年開設の日比谷公園整備事業が一つの画期となって、公園整備の意味が国民にも浸透し、公園という施設の意義が、単なる古跡や名勝、遊観の場所から、都市生活に欠かせないものへと変化したのである。

 また、この間に、文化財としての史跡保存についても、明治44年の史蹟名勝天然紀念物保存協会の設立、大正8年の史蹟名勝天然紀念物保存法の制定など、次第に理念的・制度的な整備が進んでいた。

 この結果、当初渾然一体となっていた公園と史跡の意義は次第に分離され、それぞれ異なった目的と整備手法が要求されるようになっていく*17。

 鳥取城跡の公園設計を担当した折下吉延は、こういった流れの中で、日本へのパーク・システムやブールバールの導入に取り組んだ人物である*18。

 折下吉延は、明治神宮外苑などを手がけた後、関東大震災復興事業での大規模公園設計に尽力し、第二次世界大戦後も活躍した人物である。その業績の概要は『折下吉延先生業績録』で知ることができるが、残念ながら同書では久松公園については年譜に記されているのみである。

 折下は、長岡や本多と違い、公園としての細部よりは計画性に重きを置いたようであり、久松公園の特質にも、それが現れている。

 折下の設計に沿って整備され、大正11年に開設された久松公園は、かつて鳥取藩主池田家の居城のあった久松山・鳥取城跡に設置されている。久松山鳥取城跡は、明治23年に旧藩主池田家が国より買い戻し*19、そのまま所有していたが、市民からの要望を受けて公園整備が行われた。整備費用は所有者である池田家が負担し、事業は池田家から委託を受けた鳥取県が行った*20。構造的に、鳥取城跡は山上ノ丸と山下ノ丸に別れているが、このとき公園整備されたのは山下ノ丸のみである。藩主居館のあった三ノ丸が明治22年に中学校用地として県に貸し出されており*21、その下段にあたる南ノ御門跡周辺も、中学校用地としてグラウンド化されていた。また、宝隆院の隠居所であった場所にも、すでに明治40年に皇太子の宿舎として仁風閣(重要文化財)が建設されていた。このため、実際に公園施設として整備可能であったのは、天球丸跡、その下段にあたる楯御蔵・紅葉御殿跡、二ノ丸跡、城代屋敷跡、米蔵跡などの場所に限られていた。

 現存する設計書・設計図等は確認できていないが、鳥取城跡の公園整備事業は鳥取市にとって一大イベントであったため、幸いなことに豊富な新聞記事が残されており、折下のインタビューや鳥取での講演の内容をある程度知ることができる。

 折下は、かなり具体的な構想を新聞のインタビューに答えて開陳している。

「久松公園は……大体に於て非常によく纏まつて居るから之れに手入れをして行けば善いと思ふ公園は三段に分ちて一番下の段は運動場とし、中段は庭園式のものとなし上段は見晴らしのよい遊園地としたならば善いと思ふ……まづ仁風閣があのまゝ保存せられる様になつた事は何より結構な事……公會堂として使用し……前面の庭は松の老木は保存し地上は芝生にして……洋風七分日本風三分位に加味したものを造り自動車でも運轉し得るカーブを造つておく……道を登り詰めた所大松のある広場は眺望がよいから手摺を付けたりベンチを置いたりする……二の丸跡は廣い立派な場所で、雑草を除いて天球丸にある 梅を移植して梅林にしたり……茶見世を置いて……飲食物を販売する様に設備する……下の段、今動物のゐる所は……他日ゆつくりと子供の遊び場とし……下段の広場今畑になつてゐる處は奥の方の高い石垣を多少崩いて埋均し、石垣の跡はスタンドとして立派に活用……以上を一度に仕上げることは到底費用が許さないから年々餘力を以て一歩々々進めてゆく……」(『鳥取新報』大正11年4月25日)

 折下の設計は、構造的には、石垣も含め、鳥取城の縄張りをほぼそのまま公園に流用するものであった。この基本骨格は、史跡整備や現在でも基本設計は引き継がれている。このうち、「一番下の段」は公設グラウンドとして整備された後、現在は鳥取県立博物館敷地となっており、「今動物のゐる所」は、昭和32年の指定後に、史跡整備によって米蔵跡の遺構表示が行われている。仁風閣の存置にも言及しているが、折下の計画が、古跡の保存よりも公園機能の充実の視点を重視していることは、この発言からも読み取れるのではないだろうか。

 また、折下は、久松公園設計のための調査で鳥取を訪れた折、鳥取県師範学校で次のように講演している。

「都市の繁栄と同時に土地計劃道路計劃公園計劃などもあるが市の中央を公園にするは困難である……久松山でも樹木を伐り拂ひ住宅をも建設した後に至りさて公園にしたいと云ひ出しても最早追ツ付かぬ公園の計劃が必要であるなら今が一番の時機と思ふ」(『因伯時報』大正10年8月30日)

 この講演が、大正8年の欧米留学以降、折下が都市研究会等でも主張するようになっていた、パーク・システムの思想を念頭に置いたものであることはいうまでもない。

 折下は都市計画の視点から公園機能の充足とコスト・パフォーマンスの視点から近世城郭跡の地形を積極的に利用しようとしている点で、長岡や本多らとは発想の基点を異にしている。長岡や本多の手がけた城郭公園では、周辺地の余裕もあって、グラウンドなどの設備も旧城郭の主郭を破壊しない配置が選択されているが、折下が設計した久松公園においては、内堀内の城代屋敷跡という、主郭の一部にグラウンドを設けたため、高石垣を撤去する設計が選択されていることも、その傍証であるといえるだろう。

 城郭跡の公園化にあたって、公園機能を上位に置く発想はこの段階ですでに確立されていたと考えられる。

 費用面での制約や古跡の保存を重視する池田家の意向もあって、グラウンド以外の部分では大規模な石垣の撤去などは行われなかったが、久松公園の事例からは、公園に対する要求が明確になり、公園機能を重視した設計が行われるようになるにつれ、遺構に対する影響が大きくなり、かつ軽視される傾向が生じていることを見て取ることができよう。

4.おわりに

 以上概観したように、公園化が近世城郭跡に与えた影響は、近代公園の思想・制度的確立の歴史と密接に関連している。技術面、遺構の取り扱いなど学術的理念の面では未成熟であるとはいえ、長岡安平ら初期の公園設計者は、城郭跡の歴史性や地形を尊重し、最低限の改変に止めるという理念をもっていた。

 公園機能の明確化や都市計画上の意義が確立されるにつれ、大正後期には、保存よりも公園機能の充実に力点を置いた設計が、城郭跡公園にも適用されるようになる。

 鳥取城跡・久松公園は、この過渡期の姿を示す事例であるといえよう。

 井下清が指摘しているように、文化財としての史跡保存運動が実効をもつに至らなかった時期に、公園化という手法が大きな役割を果たしたことは間違いない。しかしそれは、皮肉なことに、近代公園の確立・発展によって、むしろ破壊要因に変質していったのである。第二次世界大戦後、軍組織が解体されると、新たに多数の近世城郭跡が公園化されることになる。明治維新後も継続して城郭跡を使用していた軍の施設が機能を失い、跡地利用として公園化されたからであるが、このときにはすでに、公園化のための改修が遺構に大きな影響を与える場合も多くなっており、文化財保護法施行後も、指定を受けていない城郭跡の保存に大きく影響していると考えられる。

 本稿ではごく大雑把な流れを追うことしかできなかったが、個別の城郭公園について、開園の経緯や設計者、公園設計の時期、改修の経緯を把握し、遺構の保存状況との関係性を検証していくことは、文化財としての城郭跡の保存整備のためにも、欠くことのできない要件なのではないだろうか。

―注―

*1「城跡の公園化による保存も、100年前後の間になされてきたものであるが、城跡内全体を公園化する方向で検討しているものはきわめて少なく、今後歴史公園の性格を明らかにするとともにその計画手法の検討が必要とされる」田畑貞寿・宮城俊作・内田和伸「城跡の公園化と歴史的環境の整備」(『造園雑誌』53(5)、1990)

*2高橋理喜男「太政官公園の成立とその実態」(『造園雑誌』38(4) 1975)

*3俵浩三「中核都市における中央公園の歴史的性格」(『造園雑誌』48(5)・1985)

*4西村幸夫「土地にまつわる明治前期の文化財保護行政の展開―「歴史的環境」概念の生成史 その3―」(『日本建築学会計画系論文報告集』358号・1985)

*5太田秀春「旧仙台藩領角田県における士族授産と城郭払い下げとの関連について―城郭(要害)史研究の視点から―」(『地方史研究』第281号・地方史研究協議会・1999)

太田秀春「明治維新期における城郭認識の変遷について―旧仙台藩の要害に対する諸機関の政策比較を中心に―」(『城郭史研究』20号・日本城郭史学会・2000)

*6平井誠「明治期における宇和島城の城郭地処分と城郭保存運動」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第5号・2000)

平井誠「明治期における廃城の変遷と地域動向」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第7号・2002)

*7徐旺佑「近世城郭の文化財保護と保存・活用の変遷に関する考察」(『日本建築学会計画系論文集』74巻643号・2009)

*8たとえば、平井誠は「公園設立政策と廃城の関係をみてみると、廃城の公園化に果たした地域意識の創造を認識させられる。公園概念が普及していない状況にあって、明治政府すら廃城を公園の対象として意識していなかった」と述べているが、これは公園史における定説とは異なる理解である。公園化そのものが、当時における史跡保存の類型の一つであったことを考慮するならば、所謂「廃城令」と「公園設置令」の関連性について、さらに検討が必要であろう。また、平井の指摘する「地域意識」「懐旧意識」という、地方における取り組みのバックボーンと、官有地の利活用という国の政策意図がどのような関係性をもつのかといった点も、重要な課題である。いずれにせよ、公園史・都市計画史と地域史・文化財整備史の成果を総合化することは重要な課題である。

*9橋寺知子「開園時の大阪城公園と大正期の計画案について」(『平成14年度日本建築学会近畿支部研究報告集』・2002)

*10他に、桑名城跡の小澤圭次郎、沼田城跡の久米民之助、久松公園の折下吉延の名が把握できている。小澤はいうまでもなく日本庭園のオーソリティであるが、久米民之助は政治家・実業家である。折下については本稿で詳述する。

*11長岡安平顕彰事業実行委員会・編『祖庭 長岡安平 わが国近代公園の先駆者』(東京農大出版会・2000)

*12津田礼子「長岡安平の公園デザインの特質」(『活水論文集』46、活水女子大学、2003)

*13「実際問題としての保存事業について」(『史蹟名勝天然紀年物』第7集、1932)

*14赤坂 信「井下清による史跡名勝天然記念物保存事業に対する批判とその論拠」(『ランドスケープ研究』63(5)・2000)

*15渋谷克美「全国各地の公園設計と本多静六」(『本多静六通信』7号・1996)など。渋谷は本多の生誕地である埼玉県菖蒲町が発行する『本多静六通信』に、実地調査の報告も含め、精力的に論考を発表している。

*16遠山益『本多静六 日本の森林を育てた人』(実業之日本社・2006)

*17長岡や本多の公園設計においても、逍遥路を確保するための導線の改変、運動場や迷宮の設置、堀の埋め立ては行われているが、基本的に主要な郭以外の場所が選ばれている。特に長岡安平については、城郭の構造的特質を知悉した上で公園設計にあたったのではないかと考えられる。

*18「都市計画法が制定されると共に、内務省内に後藤新平が創設した「都市研究会」は、都市計画の国内啓蒙宣伝を極力行ったが、その催しの一つとして都市計画講習会が屡々行われた。

 その講習会に講師として公園を講じたのは、内務省明治神宮造営局技師折下吉延(1881-1966)であった。

大正8年(1919)5月、折下は市区改正委員会から都市計画の調査の委嘱を受け欧米に出張し、主として公園を視察して翌年1月帰朝した。……公園を専門に欧米へ出張した公園専門家としては、折下はわが国最初であった。……偶々都市研究会は大正10年10月19日より2週間、第1回の都市計画講習会を開いた。……この講習で、彼は公園計画の必要性、最近の公園計画の実例、そして我が国の都市における公園計画に触れた。

彼は公園系統を「ブールバード・システム」又は「パークウェイ・システム」と称し、これを行うことを「連絡式公園計画」と名付けた。そして単独に個々別々の適地に公園を設ける計画を「散在式」といって、これと対照的な「連絡式公園計画」を推奨した。……次に折下は、わが国の都市の公園が誠に少なく、これが為めには先づ計画を樹立してその用地を購入すること、在来の風致ある個所は出来るだけ公園またはブールバールにすること、理想的な運動本位の公園を増設すること、及び公園に対する財政政策(一般課税、特別賦課、公債等)を樹立するべきであることを強調した。」(佐藤昌『日本公園緑地発達史』上・下巻(都市計画研究所・1977))

*19『陸軍省大日記』明治23年2月18日付 第四師団監督部議按第1400号。

*20「鳥取市池田家?城跡久松山の一部を池田家に於て遊園地として必要なる設備を施し一般市民の爲め開放せらるゝ事に決し其工事を本縣に委嘱せられたるに依り縣は直に内務省明治神宮造營局技師折下吉信氏に之れが設計を依頼せり」(『鳥取新報』大正12年3月25日)

 

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