「フェミニズム批評」という視点が可能にする不可視領域へのアプローチ ―塚本 靖代 『尾崎翠論―尾崎翠の戦略としての「妹」について』を読む―

(2006年に刊行された塚本靖代氏の遺著の『日本海新聞』での書評。2006.7)

 本書(近代文芸社、2006)は、2002年逝去された塚本靖代氏の修士論文に、雑誌論文を加えて刊行されたもので、あまりに早く逝かれた塚本氏が私たちに残された、重要な研究成果である。塚本氏は、フェミニズム批評という方法、あるいは視点から尾崎翠にアプローチした、近年の尾崎翠研究におけるキーパーソンの一人であった。

 昭和30年代にはじまる尾崎翠の再評価と研究の歴史を跡づけ、その中で見過ごされてきた、あるいはそれらの研究の視点からは不可視であった領域に独自の視点から光を当てる論考は、塚本氏の学問のスケールの大きさを垣間見させるものである。単に尾崎翠についての論であるばかりでなく、尾崎翠を読み、語ることを通じて、「不可視領域の文学史」を呼び出そうとする野心的な研究であるとさえ思う。上記のような著作である本書は、読み手の、尾崎翠理解の視点そのものに揺さぶりをかける内容となっている。

 たとえば、本書で提示される研究史理解によって、私ははじめて、尾崎翠に対してたびたび用いられる「ミューズ」という言葉の位相、それが表現する尾崎翠研究の現状と課題を理解することができた。「ミューズ」という言葉そのものについては、直接にはほとんど何も語られていないにもかかわらず、である。

 昭和10年代以降ほとんど忘れ去られていた尾崎翠という作家の再評価がはじまったのは、よく知られているように、昭和30年代のことである。それは、岩谷大四、花田清輝といった批評家たちの手によるものであった。

 花田清輝は「ブラームスはお好き」の中で、尾崎翠について

「かの女は、相当、ながいあいだ、私のミューズでした」

 などと書いている。

 花田清輝と尾崎翠の関わりについては、菅本康之氏(「光源としての唯物論的ユーモア—尾崎翠と花田清輝」『昭和文学研究』第36号 昭和文学会、1998)、土井 淑平氏(『尾崎翠と花田清輝―ユーモアの精神とパロディの論理』 北斗出版、 2002)などが既に詳細に述べているように、評論家・花田清輝が方法論的に尾崎翠の影響を受けていることは間違いない。

 しかしそれが「ミューズ」という言葉と結びついてしまうところに、不思議さ、というより違和感の源泉がある。(ミューズは、いうまでもなく「知的活動を司る女神」であるから、この表現はつい見過ごしがちになるのだが)。

 彼らの「尾崎翠」再評価は、既存の、たとえば「女流文学」というような)枠組みの外側に置くことではじめて可能になったものである。それは、塚本氏の言葉を借りれば「完成度の高さが強調され」「女性作家・女流作家というジェンダーが脱色されて、無性的な作家」としての尾崎翠を評価するものである(尾崎翠の作品は、同時代的にも「女流文学」としては評価されていないが)。

 そういった「無性の評価システム」による再評価が、結局「ミューズ」という「女性の神」の名前に結びついてしまうのは、何故なのか。また、それに一片の疑問も差し挟まれることがないのは何故なのか。

 このような疑問が、本書の研究史に関する叙述を読んでいるうちに、不意に氷解した。塚本氏は「合理的かつ抽象的かつ普遍的な思考だけが真理であるという実定主義は真理についての男性的定義だ」という言葉を引いてフェミニズム批評というアプローチ方法の基本的枠組みを説明している。これ自体はよく知られたことだが、尾崎翠という分析対象が置かれることで、急に具体性を持って見えてくる。ポストモダン以前の「知的活動」はすべて「男性的定義」のもとにあるのであれば、花田の示す「ミューズ」も、当然「女性の形を借りた男性」またはせいぜい「無性」の存在にほかならないことになる。

 してみると、尾崎翠を「ミューズ」として見るということは、尾崎翠作品を、無性的なもの、もしくは男性的なものとみなすことを前提にとしている。このようなスタンスは、「ミューズ」という言葉こそ使わないにせよ、研究者の性別にかかわらず、長らく尾崎翠研究におけるスタンダードであった。そのため、モダニズムの視点からであれ、感覚論の視点であれ、技法や作品の分析に力点をおく研究・評価は、多かれ少なかれこの限界を共有している。確かに、1980年代以降の作品分析においては、「少女」やジェンダーといった分析概念、フェミニズム批評の手法は導入されてきた。しかしそれは、尾崎翠という作家の身体から分離された作品評価である限りにおいて、作品内容の分析にとどまり、身体をもつ著者と作品の間のダイナミズムを射程に捉えることのできるものではなかったように思われる。

 塚本氏の独自性は、フェミニズム批評という視点の導入によって、作品と著者の関係を回復し、上述のような視点から不可視になってしまう尾崎翠という「女性」を作品の中に呼び戻そうとしたことにある。言い換えれば、それまで主流であった「無性の作家」としての理解を超えて、尾崎翠という身体をもつ叙述主体を捉え直そうとしたのだと思う。

 本書において、塚本氏は研究史にかなりの労力を割いている。これは、通常の著書でいう「研究史のまとめ」的なものというより、塚本氏が上記のようなスタンスをとる上で不可欠な、スプリングボードの役割を果たすものだったのではないだろうか。塚本氏は、このスプリングボードを使って、「戦略としての妹」という、「なまみの尾崎翠」の領域に非常に近い位相にたどりついている。

 しかしながら、以上のようなことがらは、すべて「前段」でしかない。

 むしろ、たどりついた位相がどのようなものであるのか、ということこそが、本来この研究の本質的な価値に関わることであろう。

 が、本稿はひとまず、ここで筆を置きたい。塚本氏の仕事そのものの本質的評価は、これから何年もの時間をかけてなされるべきと考えるからである。

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