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城下町都市の近代化と近代和風建築

(『鳥取県の近代和風建築』所載。2006)

1,はじめに

 鳥取市の中心市街地は、いわゆる「城山」である久松山を背景に、袋川と、それと直交する三つの街道を基本骨格とする、江戸時代の城下町をもとに形成されている(1)。

 現在の市街地は、当時と比較すると、JR鳥取駅や国道沿いに同心円状に拡大しているが、中心部分の町割や街路はむしろよく原形をとどめているといってよい(2)。

 しかし、そのような町割の遺存状況と対応するような、歴史性を明示する歴史的建造物等は、ほとんど残されていない。

 このようなアンバランスさは、よく知られている近代の大災害(鳥取大震災、鳥取市大火災)のもたらした惨禍によってもたらされたものであるが、同時に、城下町都市としての基本構造を保ちつつ、近代都市の機能を獲得していった、鳥取市中心市街地の近代化の特徴を示している(3)。

 鳥取に限らず、多くの城下町由来の都市にとって、近代都市としての機能の獲得が、明治維新以降現代まで、共通して重要な課題であったことはいうまでもない。この課題に対する取り組みの形が、それぞれの地域都市の特性としなって現れているとも言えるだろう。

 本稿では、以上のような前提を踏まえ、城下町都市・鳥取の近代化の様相について、建築物・都市景観との関係から考えてみたい。

2,城下町的特質と近代都市化の様態

 元和3年、池田光政の襲封によって、鳥取藩は因幡・伯耆二国を合わせて32万石の石高の大藩となった。光政との国替で入国した池田光仲もこの藩領を引き継ぎ、以後明治維新まで、全国有数の大藩として継承された。そのため、他地域においても、その藩主の居所である鳥取城下町は「繁華の地」と認識されていた(4)。

 元和5年に池田光仲によって造成がはじめられ、元禄頃に一応の完成をみたと思われる鳥取城下町は、下記のような特徴を持っている。

① 城郭周辺を枢要と位置づけた全体プラン(城山である久松山を中心に全体が計画されている

② 当時の社会制度を前提とした区画設計(城郭附近に重臣を、惣構にあたる袋川の内側に中級家臣の屋敷を配置し、町人町を武家屋敷地で取り囲む形としている。町人町は京都にならった長方形グリッドで構成されているが、武家屋敷は格式に沿って不定形な区画となっている)

③ 町中で活動する人々の動線を管理しやすい構造(惣構を形成する袋川、重臣の居住地と町人町を区画する薬研堀の存在によって、それぞれの区画間の移動を制限。町内は一町単位で木戸を設ける。薬研堀より内側には惣門を通らなければ入れない。城郭側から見通しが効く街路構成で、必要な場所には升形状の曲がり角を設定)

 このような基本プランは江戸時代を通じて不変であり、周辺村落の都市化による膨張はみられるものの、基本的なありようが大きく変わることは無かった。鳥取城下町は藩政期の藩都として、安定した繁栄を保っていた。

 鳥取城下町をとりまく状況が一変するのは、明治維新後のことである。

 藩政の拠点であること自体を成立基盤とする鳥取城下町は、制度面での廃藩置県・島根県への併合などによって、一時急速に衰退してしまったのである5)。

 明治政府の近代化政策のありかたも、鳥取をはじめ日本海側諸都市の衰退に拍車をかけていた。

 西欧列強に対抗するため、産業面での近代化を急いでいた明治政府は、先進地の産業開発を優先する政策をとった。具体的には「偏った地域への資本投入」となってあらわれたこの政策によって(交通網の発達を妨げる地形上の不利もあったが)、山陰地方は日本全体の近代化の流れから外れるようになり、明治後期には「裏日本」と呼ばれる後進地域となっていったのである(6)。

 鳥取県の再置によって一応は成立基盤を回復したとはいえ、このような状況下で、鳥取城下町の近代都市への変化は、望むと望まないとに関わらず、緩速なものにならざるを得なかった。

 それは、結果的には城下町的特質を現在まで温存することにつながっているのである。

 先にあげた①~③のような城下町的特質のうち、

 ②城郭周辺への中枢機能の集中

 ③社会制度に基づく区画形態

といった点は、明治以降もほぼそのまま継承された。

明治の後期までに、敷地面積の大きい重臣の屋敷が県庁や裁判所といった公共機関に転用される一方、町人町は商業地に、中級武士の屋敷は住宅地に転換されていったが、これらは区画形態を維持しつつ機能を読み替えるものに過ぎず、前代の建築物も、当所はその多くが継承されていたものと思われる。

 この状況にいくぶんか変化が表われるのは、明治40年に至って、山陰線が開通してからのことである。城下町時代の目抜き通りであった智頭街道に対して、駅と県庁を結ぶ若桜街道の役割が相対的に重くなったためである。

 一方、江戸時代後期においても既に機能を失いつつあった(7)③の様な町中の動線を制限するとする仕組みは、藩の消滅によって必要がなくなり、近代化のなかでむしろスムーズな動線の確保が課題となったため、惣門の撤去等の対応がとられたようである(時期等は未詳)。

 明治〜大正時代、一般的な地域住民は、端的にいえば「いつまでもこうした城下町的寂寞の状態は永くは続くまい・・・町の目抜きの商店の店構へは皆人造石の洋風となつて了ふでありませう、今に智頭街道より若桜街道街道が目貫にならう、何處も彼處も道路もアスハル塗こうした都会的の華やかな文化が滔々と侵入して来て、陰鬱な町を表面でもいゝ明るくしてくれる・・・」 (8)といったような認識をもっていたようである。現状は「城下町的寂寞」状況にある鳥取の町は、次々と進入してくる「都会的の華やかな文化」によって「表面でも」明るくなるだろうと言うのである。

 この言説に代表されるように、当時の鳥取の人々の多くは、道路や建築物の仕様といった表面的な変化に対する認識はあっても、都市構造に対する問題意識は希薄であった。

 この時期の鳥取では、「城下町的寂寞」から「都会的の華やかな」都市への緩やかな変化を始まっていたが、城下町として完成された骨格をもつ故に、都市プランそのものの近代化については等閑視されている面があった。

 この時期の鳥取の都市景観や建造物を端的に知ることのできる資料としては、現在の観光ガイドブックと市勢要覧の中間的な性格をもつ『鳥取案内』(9)や『大正の鳥取』(10)、皇太子(後の昭和天皇)の結婚に際して作成された『御成婚記念因幡之栞』(11)等の他、「鳥取新報」「因伯時報」等の新聞記事をあげることができる。

 これらの資料に掲載された写真等を見ると、江戸時代の建造物の改造によって、近代化する商業形態に適応しようとする商家の姿が見てとれる。それは、土間を拡張して土足での来店者を受け入れる、店先の窓を改造してショウウィンドウ化する、大型の横看板で外観を変化させるといった形に、端的にあらわれている(12)。

 また、この時期は、県庁や仁風閣、陸軍隊舎、鳥取高等農業学校のような洋風建築だけでなく、鳥取地方裁判所、鳥取市役所、鳥取市公会堂等、和風の外観をもつ公共施設も少なくない(13)。

 いずれにせよ、近代化に伴う建築物の更新や変化は個別・局所的なものであり、都市景観を大きく変えるものであなかったと思われる(14)。

3,都市計画の進展

 鳥取市最初の都市計画は、昭和2年鳥取市長に就任し、以後12年間市長を勤めた楠城嘉一(明治16年(1883)~昭和17年(1942))のもとで策定された。楠城は、周辺町村の合併、郡是工場の誘致、樗谿・久松公園の整備、砂丘の観光資源化など、現在の鳥取市の基礎となる事業を推進した人物である。その中でも特に、都市計画は、楠城市政の骨格をなすものであるといえる。

 楠城は鳥取城下町が近代都市に転換するための構造的な課題を、次のように述べている。

「惟ふに我が市は従来因幡一円の集散地としての消費都市たるに過ぎなかったけれども後は生産工業都市として大に発展しなければならぬと信じます」(15)。

 先に述べたような「裏日本化」の流れの中で、大正時代末までは、鳥取の人々自身も、生産工業都市への転換を半ば不可能であると考えていた。それがこの時期にあらためて目標として掲げられるようになったのは、日清・日露戦争を経て、朝鮮半島・中国大陸が経済圏として視野に入ってきたことによる。

 「賀露が良港なら北満へは一番近い」「満州国創建、日満経済ブロックの確立へ、国際関係がどうならうと日本は挙つて前途に希望を繋いで臍を固めているが、今後満州と日本とを結ぶ最重要コースは北鮮と裏日本との洋上にひかれるであらう・・・」(16)

といった認識を背景に、県都・鳥取の地位回復が声高に叫ばれ、大規模な都市計画が策定された(17)。

 この時の都市計画は、

「要スルニ都市計画ノ目的ハ交通、衛生、保安、経済ニ関シマシテ永久ニ公共ノ安寧ヲ維持シ市民ノ福利ヲ増進スルモノ」(18)であり、消費都市から生産工業都市への転換の悲願を叶えるためのものであった。

 しかし、その成果は短期間には顕在化せず、同時代の評価は決して高いものではなかった。

 それはたとえば、「何がそうさせたか、衰退の都市鳥取の歎き・・・鳥取市においては、遺憾ながら、みるべきものがない・・・”工業都市に転換しよう”そう思いついた時は、すでに遅かった」(19)といったものである。 実際、用地買収や工場誘致の遅れによって、この都市計画の具体化は、鳥取大震災・鳥取市大火災の際の災害復興まで、大部分持ち越されることとなっている。結果の可否はともかく、温泉及び鳥取砂丘といった、比較的初期投資を必要としない自然環境を観光資源として活用するという短期的な処方と(20)、都市全体を生産工業都市に転換しようという長期的な目標は明確にみてとることができるものであり、現在も形を変えて継承されている部分は少なくない。

 この都市計画においても、旧城下町地域については、道路の拡幅・直線化といった対症療法的な改変にとどめる考えであり、城下町造成以来の基本プランは継承することとなっていたが、消費的都市から生産工業都市への転換を図ろうとする大きな流れ、都市計画法及び建築物法の適用といった法規、商工業や交通機関の整備によって、旧城下町地域の都市環境がこの時期に急速に変化したことは明らかである。

 上記のような状況を背景に、建造物の更新・改変も、昭和10年代には大幅に進展したようである。残念ながら現時点で統計的には把握できていないが、鳥取師範学校『郷土研究紀要』第1号(21)に掲載された打浪〓「民家-鳥取市に於ける-」によって、その時期の城下町地域の状況を概観することができる。

 打浪は鳥取城下町と周辺部分の民家の形態等について詳細に調査しており、この時点で城下町地域の「民家」全体の80%が切妻屋根であったこと、瓦屋根の大半が赤瓦であったこと等、興味深い情報を残している。

 打浪の観察によれば、この頃の鳥取城下町のまちなみは、伝統的建築物及びその系譜をひく近代化された和風建築(22)と、近代的な洋風建築が(23)、江戸時代的な都市プランの中で混在しているといった状況であった。

 打浪は、智頭街道・若桜街道の城下町の伝統的景観を「美しい」と述べる一方、古態の建物と対照的な姿を見せる近代和風建築や、混在するモダン建築物群に対しても決してマイナスの評価を与えてはいない。

 しかし、打浪のこの論考からは、都市機能のシフトに関わる、鳥取旧城下町の都市景観・建築物の変化の一側面をみてとることができる。

 このような変化を、より鋭く認知していたと思われるのが、民芸運動の実践家として知られる吉田璋也(24)である。

 『京郊民家譜』に刺激を受けた吉田は、昭和13年、当時残されていた古民家の写真を撮り、「鳥取民家譜」と称する一冊の写真帳をまとめた(25)。この写真帳には、吉田の問題意識がよく現れている。

「鳥取の街には古いが美しい民家が少なからず遺っている。門長屋、出格子、犬垣なぞ見直されていい美しさである。文明の暴力は除外されることなくこの街にも急速度で這入っている。早晩これ等の物も壊されて新しい安物に代わっていくに違いない。時の勢いなれば停めるすべもない。せめて写真にでもこれ等の民家を遺したいものである。懐古のためにも、また次の時代の新しい建設のためにも。・・・私の撮った四十七葉は武士の家、足軽の家、徳人の住居、商家等雑多である。文明は日本全土の建築を画一的にしたがっているがこの四十七葉はまだ特色のある街の姿であった。鳥取の街が計画的に建設されて四百年。この年月は鳥取人を生み、鳥取人型を作った。そして鳥取人の伝統は出来た。・・・古い民家の写真を撮って歩いたことによってはからずも鳥取人の私にその民家に宿る美しさは深い反省を与えずにはいなかった。」(26)

 吉田のこの序文には、都市の性格そのものが変わり、地域文化の端的な現れとしての建築物が早晩「画一的」な「新しい安物」に取って代わられるという危機感に溢れているといえるだろう。

 鳥取大震災の被害を受ける直前の昭和10年代には、既に都市計画の策定等による都市の性格の変化によって城下町・鳥取の風景が大きく変わりはじめ、「画一的で新しい安物」による伝統的な建築物の蚕食が目に見える形で現れつつあったのである。

4,おわりに

 一般に、旧鳥取城下町地域に歴史的建造物があまり残っていないのは、鳥取大震災・鳥取市大火災の影響であるという印象が強い。

 確かに物理的に大きな損害が与えられたのは間違いないが、これらの災害だけでなく、あるいはこれらの災害以上に、都市機能の変化、都市計画の指向などが大きく関わっている。

 これらの条件下で、昭和10年代頃には、城下町の旧態を留める町割状に、異なる種類の建造物が混在する、鳥取独自の都市景観が創出されていたのである。近代の二度にわたる大災害は、都市計画の急激な進展をもたらした代わり、それまで残されていた特徴的な都市景観の構成要素の多くを破壊したのである。しかし、その重要な構成要素である町割そのものは、なお完全な破壊を免れて残存しており、再び(以前とは異なった形ではあろうが)「鳥取城下町特有」の景観が醸成されていく可能性も少なくないのではないだろうか。

【追記】

 本稿の執筆上重要な位置を占める「鳥取民家譜」及び打浪論文について知悉することができたのは、鳥取民芸協会理事・木谷清人氏のご教示によるところが大きい。この場を借りてお礼申し上げます。


1) 鳥取城下町の成立そのものについては『鳥取藩史』『鳥取県史』など多くの記述がみられるが、その多くは小泉友賢『因幡民談』等の地誌の記述に基づくものであり、一次資料・遺構の確認等客観的な研究は今後の課題として残されている。

3) 佐々木「城下町の近代化」(鳥取市歴史博物館年報)を参照。

4) たとえば、岡島正義『鳥府志』に次のような記述がみられる。

「享和年間、江府にて諸国の繁華の地を相撲の番附に准へて上木せしに、此鳥取、幕の内にはありしかども、裾の方へ甲州甲府と顔を合せたりしが、其後二三枚繰上て、当時にては紀州和歌山と合す」

このように鳥取は自他共に江戸時代における有力都市のひとつとみなされていた。

5) 島根県時代(明治9年~14年)、旧鳥取県域が衰退したという言説は、たとえば「公文別録」に収められた「島根県士族鵜殿長外一名建白鳥取県再置ノ議」(明治11年、国立公文書館蔵)など多数見られるが、県庁の有無の影響をもっとも受けたのは、再置運動の中心となった旧士族の居住地・鳥取旧城下町であったと思われる(鵜殿らの嘆願に対する島根県令境二郎の意見書にもそのような言及が見られる)。

6) 「裏日本化」の問題については、古厩忠夫『裏日本 -近代日本を問いなおす-』(岩波新書、平成年(1997))、阿部恒久『「裏日本」はいかにつくられたか』に代表されるように、近年研究が蓄積されている。山陰においても「・・・我が国は二大戦役の結果各種教育機関は著しく整備したるも未た本道には高等農林学校さへも設置せられさるは遺憾極まれり之を他の地方に比較するに我が山陰は教育的にも亦頗る薄幸なり若し此の儘にて経過せは進む者は益々進み遅るゝ者は愈々遅れ我帝国は奇形的発達をなすならん豈憂慮すへきにあらずや・・・」(明治45年3月「第二十八帝国議会議事録」『鳥取高等農業学校設置顛末』所載)といった言説は、明治中期以降数多く見られるようになる。

7) 江戸末に町年寄を務めた人物の知見を明治時代に聞き書きした「鳥取旧市政」という資料に、次のような記述がみられる。

「享保8年4月家老布達

町中先規ノ通木戸出来申候ニ付左ノ通木戸所々に制札立置申度

由御奉行共申ニ付御目附致相談制札立置候様御奉行共へ

申聞候事

右ニ掲クル布達ノ如ク中古以来町方諸口ヘ木戸併制札建置有之ノ処近世之ヲ廃停セシモノナリ其年度詳ナラス」(鳥取県立博物館蔵「鳥取旧市政」)。

8) 因伯史話会編『因伯人情と風俗』、横山書店、大正15年(1926))。

9) 本城常雄編著『鳥取案内』、鳥取市役所、明治42年初版。

10) 本城常雄編著、鳥取市役所、大正11年(1922)刊。

11) 『御成婚記念因幡之栞』、大正15年(1926)刊。

12)具体的には下記のような事例にみることができる。

図版1 土足の客と応対するため、土間を広げ椅子を設置している。 

図版2 出格子部分をショウウィンドウに転用している。建物全体は伝統的な雰囲気を保っている。

図版3 極端に大きな看板で2階部分を覆い、建物の様相を一変させている。蓄音機店・理髪店・写真機店など、新興の業種に目立つ。

(3点とも『因幡之栞』所載)

13) 鳥取地方裁判所・鳥取市公会堂

14) 久松山に向けての眺望写真によって、江戸時代的な景観が良く残っていることが確認できる。

15) 「鳥取新報」昭和3年1月1日号「楠城嘉一市長挨拶」。

16) 「鳥取新報」昭和8年1月21日号。

17) これは、鳥取に限ったことではなく、日本海側諸都市に共通の認識であった。既に後進地域化していた「裏日本」諸都市において、拡大する中国大陸との交易の玄関口としての地位確保は最重要課題であった。

18) 『鳥取都市計画概要』(昭和7年・鳥取市役所)所載「都市計画顧問大藤高彦講話」。

19) 『経済風土記』、昭和7年。

20) 楠城市政期の政策には、絵はがきによる京阪神への売り込み、砂丘の観光地化のためにサンドスキーを開発するなど、昨今のソフト事業による観光地の活性化に先立つ発想も多く見られる。広域交通網の整備(大阪からの空路の開発)、地域内のインフラ整備(労働力と観光客の移動のためのバス網整備)、等、当時としては整合性の高い計画であった。当時鳥取県は鳥取砂丘などを都市計画範囲に含めることに難色をしめしていたが、鳥取市側の強い希望で実現した。

21) 昭和14年、鳥取県師範学校刊。

22) 「智頭街道、若櫻街道等の純商店街に於ては切妻の民家櫛比して民家の庇は通常一間半又は二間程度に伸びた舊式建築多いがそれらの庇の上には何れも看板を立てかけ美景観を呈してゐる。而して二階表の窓は通例余り眺望をよくしない。看板の特例として板壁又は土壁を以て軒上を覆ひその前に看板を立て一見洋風建築の様に見えるのもある。」

「屋根の高さが一般に低い、殊に舊い家は二階建が普通であるがその天井を甚だ低くしてゐる。・・・然し最近の建築になるものはこれらの制約を脱して二階を著しく高く一間半位にし硝子障子等を入れてその利用度を甚だ廣げた。・・・我らは二階の高さと庇の短さとによりて一見その家屋の新旧を知るのである」

「今日猶普通の民家に変化せる棟にも士族屋敷の面影を存する家老門的建築を操することができるのである」

23) 「鐵筋コンクリートで大陸屋根又は圓錐屋根マンザート等モダン鳥取のプロフィールを窺ふに足るものである」「銀行、各商家に於ては和洋折衷の木造式近代化せるものを多く見る」

24) 明治31年(1898)~昭和47年(1972)。鳥取市に生まれる。柳宗悦に師事し、「鳥取民藝協会」「鳥取民芸美術舘」を創設するなど、民芸運動への尽力で知られる吉田は、鳥取砂丘・久松山などの自然や箕浦家武家門・仁風閣などの歴史的建造物の保存にも貢献した。

25) 昭和13年成立、鳥取民藝協会蔵。

26) 「鳥取民家譜」序文。

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