鳥取城跡籾蔵跡の変遷

(『鳥取城跡籾蔵跡第20次調査 : 鳥取県立鳥取西高等学校改築計画に係る埋蔵文化財発掘調査報告書』2011.3所載の論考をちょっとだけ加筆修正)

 

鳥取城跡籾蔵跡は、史跡鳥取城跡南ノ御門跡の背後、三ノ丸跡に隣接し、現在は鳥取県立鳥取西高等学校の第2グラウンド等として利用されている。

 『因幡志』等、近世地誌類の記述によれば、水道谷一帯には、鳥取城下町成立以前から集落が形成されており、「沢市場」と呼ばれていたという。これらの資料にいう「沢市場」は、調査地の全域を含む、割に広い範囲を指すと思われる。また、地誌の記述だけでなく、地形の観察からも、近世以前の袋川(「湊川」と呼ばれていたとされる)の流路は現状よりも久松山寄りにあり、現在の鳥取県庁前近くまで湿地帯が広がっていたと想定できる。

これらのことから、「沢市場」は久松山麓に沿って丸山から現在の山手通りへ抜ける道と円護寺から谷筋に抜けてくる道が交差する陸路の要衝と、「湊川」の河川交通路の接点にあたる場所に営まれた集落であると考えられる。「沢市場」の想定範囲に隣接して立町された、江戸時代の「江崎町」が、当初の町割の法則からやや外れたところにあることなどは、城下町造営に先立って久松山麓の水際に集落が形成されていたことの傍証といえるだろう。

この「沢市場」は、武田高信、山名豊国が鳥取城を拠点城郭としたことに伴って、城下町的性格を帯びるようになっっていったものと思われるが、現在のところ明確に中世の沢市場の様相を示す資料はみられない。

これまでのところ、岡山大学付属図書館所蔵「因州鳥取城之図」(元和5年(1619) )が、調査地を描いた絵図資料の上限である(図1)。この絵図は、端裏書によれば、池田光政が徳川秀忠に鳥取城及び城下町の拡張計画を説明するために提示したものである。鳥取城南御門脇に、調査地の区画が描かれており、のちの「火除地」の外郭線を見て取ることができる。しかし、この資料には、調査地の性格を示す記載はなく、具体的な状況はわからない。なお、

池田光政による城下町造営後の調査地の様相は、『鳥取城下之図』(慶安3年(1650)以前)において、若干具体的に知ることができる。光政以後、国替えを経て、池田光仲が東照宮を勧請する直前の鳥取城下町を描くこの絵図は、調査地周辺に村山作右衛門、伊藤弥左衛門など11区画の拝領屋敷を記載している(図2)。

上記の資料から30年ほど時代を下った「鳥取城修覆願図」(延宝8年(1680))・「鳥取城下大絵図」(元禄年間(1688~1703)以前)でも、調査地の描写自体はあまり変わらないが、範囲内の武家屋敷の区画は9に減少している。狭わいな武家屋敷地が統合され、区画が整理されたためであろう。

このような状況であった調査地に、元禄16年(1703)、鳥取藩主の分知家・西館池田家の上屋敷が創設された。この上屋敷の敷地は、武家屋敷の区画をいくつかまとめて創出されたものと思われるが、調査地全体を包摂するほどの規模ではなかった。

3代藩主吉泰が、「本丸」(現在の二ノ丸)から、2代藩主綱清の隠居所であった「二ノ丸」(現在の三ノ丸)に居を移すことになり、鳥取城は正徳6年(1716)に大きな改修を受けている。「三ノ丸」と呼ばれていた曲輪の一部は、「二ノ丸」と呼ばれていた曲輪に取り込まれ、藩主の居館が拡張された。この工事の際、参勤交代で帰国中の吉泰は調査地にあった西館の上屋敷を借りあげ、改修して一時的に居館とした。正徳6年(1716)2月12日から享保3年の三ノ丸造営完成までの約3年間、藩主とその一族が居住したこの御殿は、「松竹御殿」と呼ばれ、三ノ丸造営完成後は再び西館の上屋敷として継承されたようである。

享保5年の石黒大火は、鳥取城と城下町の大半を焼失した火災として知られるが、「松竹御殿」も、この時に失われた。三ノ丸と「松竹御殿」を結んでいた長い渡り廊下が、導火線のような役割を果たしたという。鳥取城は、光政襲封以降、段階的に整備されてきたものと考えられるが、この火災によって一旦ほぼ灰燼に帰した。

石黒大火後の復興工事は、単なる建築物の再建にとどまらず、曲輪の普請をともなう大規模なものとなった。この復興事業は、近世城郭としての鳥取城の基本形を決定づけたものであり、ひとつの画期となっている。

石黒大火後、調査地には、再び西館の上屋敷が建設され、その後文化年間まで存続するが、瓦葺ではなく茅葺の建物であったという。「鳥取御城下絵図」(寛延年間(1748~1750))では、調査地の区画は大1・小3の4区画となっている。もっとも大きい区画が西館池田家の上屋敷と考えられ、「鳥取絵図」(寛政年間(1789~1800))でも、この区画の描写に変化はみられない。

この状況が一変するのは、文化9年7月の城下町の大火(佐橋火事)の後のことである。

西館の上屋敷は、この火事では延焼しなかったようだが、鳥取城の防火のため現在の県庁の場所に移され、跡地は空地のままとされた。

この時空地とされたのは、「鳥府久松山御城詰間図」(天保15年(1844))によれば、西館上屋敷だけでなく、それまで武家屋敷地だった水道谷寄りの部分を含むほぼ調査地全体であり、「火除地」と呼ばれた。「鳥府久松山御城詰間図」には「明御屋敷」と表記されており、建物は撤去されたが、屋敷地としての区画は残されていた可能性もある。

「明地」となっていた調査地に、凶作に備えて籾や稗などを備蓄する「籾御蔵」が建設されたのは、文政6年以降のこととであるが、年代は明らかではない。

幕府が各藩に命じた囲米の備蓄は、既に宝暦頃から行われていたが、この囲米は幕府の裁許がなければ手をつけることができなかった。そのため、鳥取藩では、豊作だった文政6年9月、これに加えて藩独自の囲米を実施することとし、その備蓄のための蔵を建設した。鳥取藩は、庄屋等に籾を集めて保管するよう命じたが、その時点では蔵は建設されておらず、蔵は大きさ・設置場所とも、後に決定するとしている。蔵の建設より先に籾を集めていることからみて、この制度は非常に拙速に実施されたようである。粗略な蔵であったためか、あるいは保存方法に問題があったのか、この時集めた籾米の一部が腐敗するなどの問題があり、後に一部を稗に詰め替えるなどの対策をとっている。この備蓄用の蔵の維持管理費は、収納している籾を貸し出し、その利息分をもってあてる計画であった。

調査地の「籾御蔵」も、この囲米制度に伴って建設されたものと考えられるが、現在のところ、正確にはわからない。「明地」の籾御蔵の存在を示す史料の初出は、天保10年(1839)である。ただし、先述の天保15年の絵図には、「籾御蔵」の建物の記載がなく、実際に建物がなかったのか、表現上記載されていないのか、現時点では判断できない。この範囲が「籾御蔵」と明記するのは、「鳥取城下全図」(安政5年(1858)が初出である。

 最後の藩主・池田慶徳の代になって、鳥取城は最後の大きな改修を受けている。万延1年(1860)、幕府の許可を得て、居館のあった三ノ丸の曲輪を拡張したのである。

 この時、宝蔵の曲輪と、三ノ丸から二ノ丸・天球丸にかけての大手登城路は削平を受けて消滅し、「火除地」側は石垣を増築して敷地を広げている。この拡張工事により、三ノ丸は、鳥取県立鳥取西高校の敷地として現存する形態となった。

 この工事に伴い、「火除地」にあった籾御蔵の一部が、撤去または移築された。幕府に提出された図面の控である「鳥取城修覆願絵図」(万延1年(1860))は、全部で8棟あった籾御蔵のうち、三ノ丸の拡張の支障となるものを撤去する計画を示している。「鳥取城修覆願絵図」は、石垣修覆願図としてははじめて籾御蔵を明示的に描いたものである。籾御蔵が単なる藩の施設ではなく、城郭の構成要素と位置づけられるようになったことを示すものである。

 この工事の詳細内容を検討するために作成された絵図が、鳥取藩政資料の中に数葉残されており、拡張前の様相と、検討された内容を知ることができる。それによれば、籾御蔵のひとつを三ノ丸の拡張部分に取り込んで櫓のように石垣際に配置し、御殿の目隠し的な機能を与えることも検討していたようである。2種類の拡張案を検討した結果、現存する石垣と一致する、改築規模の小さい案を採用したようである。資料的な面で完全な確認は困難であるが、おそらく、三ノ丸拡張に伴って撤去される分の改築も含め、籾御蔵の建物配置は全体的な再編成を受けたものと思われる。

以上述べたように、調査地は、幕末期には「御籾蔵」の郭として鳥取城の構成要素の一部だったと考えられるが、史跡鳥取城跡附太閤ケ平の国の指定範囲には含まれていない。明治23年に池田家が国より有償譲渡を受けた範囲から外れていたため、昭和19年に久松山鳥取城が鳥取市に寄贈された際に寄贈分に含まれず、市有地の範囲を基本として史跡指定を受けたため、指定範囲から外れていたものと考えられる。旧版『鳥取市史』の付図などの表記から、調査地が、近代以降も鳥取城の一部と認識されていたことがわかる。明治維新後は県有地として取り扱われ、明治初期には籾御蔵の建物が鳥取監獄に転用され、監獄の転出後は、明治中期まで、「物産陳列場」が置かれていた。

物産陳列場の移転後、明治37年には、調査地は鳥取高等女学校の校地となっている。その後は、校舎の改造(大正3年)、作法室の拡張と家事実習室・物干乾燥室の新設(大正5年)、御神影奉安所の設置(大正7年6月)、講堂の拡張と割烹室・家事室の新設(大正14年)など、建築後に小規模な増改築が繰り返された。昭和13年には本館が2階建に改築され、さらに、昭和17年には10間×16間半の大講堂の建設と、南校舎の移転を含む大改築が行われている。

昭和18年の鳥取大震災での倒壊は免れた女子高等学校の校舎だったが、昭和19年12月、火災に遭って南校舎以外をほぼ焼失した。そのため、昭和21年には木造トタン葺平屋建4教室、昭和21年には2階建8教室の仮設校舎が設けられ、女子高等学校が鳥取県立鳥取西高等学校に統合された昭和24年以降も、鳥取西高校の一部として使用された。

その後、この仮設の建物は、第一校舎及び正面本館(昭和25年~26年)、第一校舎北側特別教室(昭和28年)、部室棟(昭和30年)、テニスコート(昭和48年)など段階的に本格的な建築に置き換えられていく。昭和41年には、三ノ丸と「火除地」の間にある河川(江戸時代の「鳥取堀」を継承したもの)が排水路として整備され、さらに、昭和58年には従来の校舎の取り壊しと鉄筋コンクリート校舎の新築が行われて、ほぼ現状となった。

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