<因幡の歴史に学ぶ>とっとり自慢の人物たち 沖守固と松田道之

(『鳥取文芸』29、2007)

はじめに

 鳥取市を中心とする因幡地方は、長い歴史の中で様々な人材を輩出してきた。因幡で生生まれた人々だけでなく、この地を第二、第三の故郷として愛した人々も含めれば、その数は他と比べて決して少なくはない。

 奥田義人・橋田邦彦という文部大臣や、戦後初の衆議院議長となった松岡駒吉、地域のために尽力した由谷義治のような特色ある政治家を輩出した政治の分野。憲法学の泰斗・佐々木惣一をはじめとする学究分野。有島武郎の親友にして、柳田国男の民俗学確立を支えた橋浦泰雄を中心とする文化人グループは、大衆文学の理論的主導者白井喬二や彫刻家・長谷川塊記など、数多くの人材で構成されていた。いちいちあげることは出来ないが、経済、芸術、科学等、ここで具体的な人名にふれられなかった分野でも、鳥取出身者による業績が多く残されている。

 しかし、残念ながら、現在地域で暮らしている私たちは、そのことをあまり自覚していないようにも思われるのである。

 もちろん、昭和初期に活躍した小説家・尾崎翠のように、有志の取り組みによって再評価が広がりつつある例もある。また、『近代百年鳥取県百傑伝』(山陰評論社)のように、その事跡をまとめて記録しようとする取り組みも断続的になされてきた。

 にもかかわらず、その関心は一部の心ある人々に留まり、地域一般に広く知られているとは言い難い面も、残念ながらまだ大きいのではないだろうか。

 歴史上の人物の事跡を、地域において位置づけ、伝えていくことは、実はそれほど簡単なことではないのかもしれない。その事跡の意味を十分に理解し、自分たちの中に取り込むことが求められるからである。

 本稿では、「とっとり自慢の人物」たちのうち、明治維新後、新政府で活躍した二人の人物を、例として紹介する。

 その名を、沖守固(天保一二年-大正元年)と松田道之(天保一〇年-明治一五年)という。

 二人は近代国家としての日本の確立に貢献し、横浜や東京の、近代都市としての草創期を担った人物である。名前に聞き覚えがある方も多いと思うが、詳しい業績等をご存じの方は少ないのではないだろうか。

 ここでは、この二人の人物に目をこらし、彼らの事跡を、出身地域としての因幡の視点からとらえ直してみたいと思う。それは、筆者自身の、上述したような「先人を見つめる目」をもとうとする試みでもある。

沖守固と近代水道

 幕末期、鳥取藩は外様の大藩として大きな影響力を持っていたが、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の兄である池田慶徳を藩主に戴いていたため、政治的に微妙な位置にあり、実力を十分に発揮することが出来なかった。そのため、薩摩藩や長州藩のように、新政府の主導権を握ることができなかった。

 しかし、鳥取藩によって育成された人材は、明治新政府において重要な役割を果たすことになる。

 沖守固と松田道之は、鳥取藩士として明治維新に関わり、維新後は能吏として明治新政府を支えた人物である。他の分野同様、河田景与や原六郎など、鳥取藩関係者で明治新政府に貢献した人物は他にも数多くあるが、中でもこの二人の業績は特異な光彩を放つものである。

 藩絵師の出身である沖守固は、幕末の動乱期には鳥取藩の周旋役として江戸・大阪で活躍した。明治四年新政府に出仕し、岩倉具視を大使とする遣欧使節団に随行、その後イギリスに自費で八年滞在した。近年の泉三郎氏の研究で、アメリカでは使節の理事官で造船頭だった肥田為良を長とする九名の別働隊に参加し、フィラデルフィアを中心に六〇カ所以上の工場を見学して回ったこともわかっている。帰国後は神奈川県令・滋賀県知事等を歴任し、ヨーロッパ滞在時の経験を生かした仕事を多く残した。

 和歌山県知事在職中に発表された大岡力『地方長官人物評』(明治二五年)は、そんな沖の人となりを次のように述べている。

「鳥取藩士にて維新の際国事に奔走したる沖丹(ママ)三と云へるは、即ち守固氏の事也・・・氏は能く外国人に接し、又横浜の紳商を遇し、内外の評判頗る好かりし・・・彼の横浜水道横浜築港等の工事は、皆氏が在任中に起りたる事業也・・・氏人と為り円滑にして、又能く議論をなす、常に好んで丹青を弄び、又多くの人の知らざる風流三昧に通じ、一時通人を以て其社会に名あり」

 藩絵師出身、洋行経験者である沖の面目躍如といったところだろうか。

 そんな沖守固の仕事の中でも、神奈川県令時代、日本初の近代水道敷設など、横浜の近代都市化を推進したことは、大きな業績であるといえるだろう。

 横浜水道は明治二〇年に創設され、それを記念した噴水塔が当時の横浜停車場前に設置されたが、この台座には設計者であるH.S.パーマーとともに、沖守固の名前が鋳だされているという。数度の移転を経て、この噴水塔は横浜水道記念館横に保存されているので、機会があれば訪問してみていただきたい(残念ながら、筆者自身は未見である)。現在の、蛇口をひねれば当たり前のように水が出てくる日本の水道システムの創生に、鳥取県人が深く関わっていたことは感慨深い。

 しかも、沖のこの中央での働きは、間接的にだが、しかしかなり大きなウェイトをもって、鳥取市の人々にも恩恵をもたらしている。

 鳥取市に残された水道遺跡・旧美歎水源地水道施設が、今年重要文化財に指定されたことをご存じの方は多いかと思う。この施設は、鳥取市民の飲料水の確保と公衆衛生の向上を主目的に、鳥取市を事業主体として、大正四年九月より給水を開始し、昭和五三年に新たな水源地が建設されるまで供用されていた。山陰地方で最初に建設された近代水道施設であり、貯水池のみならず、量水施設や濾過施設なども保存されている点で歴史的な価値が高いとして重要文化財に指定されたのである。

 この旧美歎水源地水道施設の基本的な設計を行ったのが、横浜水道創設に際してパーマーを補佐し、日本における水道技術の第一人者となっていた三田善太郎である。今のところ、直接仲介の労をとったか否かは確認できないが、沖とともに取り組んだ仕事によって育った技術者が、沖の故郷にその成果をフィードバックしていることになる。残念ながら、三田の設計した水源地は大正七年の水害で大きな被害を受けたため、現在残っているのはその後大正一一年までに復旧・改修された後の姿であるが、中央での鳥取人の仕事が、故郷の人々に間接的な形で恩恵をもたらしている一例といえるだろう。

 直接的な利益誘導ではなく、日本全体に向けた取り組みの成果が、自然な形で故郷にもたらされるという、鳥取出身者の地域貢献の形の一つを見ることができる。間接的であるが故に、恩恵を実感できない面もあるかもしれないが、間違いなく私たちの暮らしにも沖の業績は息づいているのである。

松田道之と近代地方自治制度・都市計画

 沖守固が近代水道の草創に深く関わった人物であるのに対して、地方行政制度や都市計画の草創に貢献したのが松田道之である。松田は、もとは鳥取藩の重臣・鵜殿氏の家臣で、後に鳥取藩士に取り立てられている。広瀬淡窓の私塾・咸宜園で学び、幕末期には鳥取藩の政治活動に貢献した。明治維新後は内務官僚として新政府に参画、明治四年から八年まで滋賀県令を勤めたが、この間の功績が目にとまり、以後大久保利通や伊藤博文に重用された。

 内務官僚としては、いわゆる「地方三新法」(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)の草案作成など近代地方自治の礎づくりや、琉球王国を沖縄県として位置づけた「琉球処分」の推進(明治五年-明治一二年)といった業績を残している。明治政府が地方官会議を設置された際に、その対応をほぼ一任されているほどであるから、能吏として将来を嘱望された人物だったことが分かる。

 明治一二年に東京府(当時)知事となってからも、首都東京の防火対策を推進する目的での道路整備や建築物の制限といった都市計画的な手法の導入と、東京港の築造を企図した。前者は東京都市計画の起点となるものだが、明治一五年に松田が病没したため、実行には至らなかった。また、東京築港は、横浜商人の強い反対で、この後長らく頓挫することになる(このあたりの経緯は「市区改正と品海築港計画」【『都史紀要25』昭和五一所載】に詳しい)。先述した沖守固が、松田の東京築港案と激しく対立した横浜港の築港に尽力しているのは、皮肉なことであるともいえる。逆に松田も、東京に近代水道を布設する腹案を持っていたようである。

 明治前期の官界・政界における松田の存在感が大きかったのは、病没した翌日、早くも城重源次郎『故東京府知事松田道之君伝』(明治一五年七月七日刊)が東京で刊行されていることからも分かる。また、没後二〇年たって編纂された干河岸貫一『明治百傑伝』(明治三五年)でも、その非凡の才が賞されている。

 近代地方制度の原形を立案し、東京の近代都市への転換の基礎を作った松田道之の業績は、上述した沖と同様、日本全体に影響を及ぼすものであった。それはやがて、鳥取都市計画や地方自治の枠組みとして、私たちに伝えられているのである。

おわりに

 沖守固や松田道之たちの業績は、近代国家としての日本に欠くべからざるものであり、日本全体に向かって自慢できるものである。

 彼らは、直接故郷に大きな利益誘導を行ったわけではないが、自らの仕事を全うすることで、最終的には鳥取に大きく影響を及ぼしている。それは、決してこの二人に限ったことではない。大きく括るならば、はじめに述べた橋浦泰雄や白井喬二など、他の人々にも同様のことが言えるだろう。

 最初に述べたように、自慢するにたる鳥取人の数は、決して少なくない。生まれ故郷に踏みとどまり、直接故郷のために働いた人々もいれば、本稿で述べた沖や松田のように、より大きな枠組みで活動した人々もいる。前者については、身近でもあり、残された業績に接する機会も比較的多いが、後者についてはややもすれば忘れてしまいがちになりかねない。しかし、このような人物の存在を、私たちはもう少し身近に感じて良いのではないかと思う。

 故郷のためだけでなく、故郷を含む全体のために尽くした人々もまた、自慢に足ると思うからである。

<追記>

 当初はもう少し網羅的に「とっとり自慢の人物」を紹介するつもりだったのだが、このような考えに基づき、本稿では、あえて上述の二人に絞ったものとさせていただいた。他の人物の具体的な事跡について知りたい方は、まずは上述の『鳥取県百傑伝』などをご覧いただきたい。

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