スタン・ハンセンとその時代 アントニオ猪木の冥福を祈ると共に

2022年9月に全日本プロレスの50周年記念興行として日本武道家大会が行われた。2000年前後は全日本プロレスの聖地と呼ばれた日本武道館。全日四天王がプラス外国人の有力レスラーがメイイベントとして、三冠戦で死闘を繰り広げた場所である。総帥ジャイアント馬場が「興行の儲けは武道館で試合が組めるから」と言ったが、いつも満員札止めと発表され、プロレス大賞の最優秀試合に選ばれた試合もいくつもあった。
終わりの前が一番明るい、という言葉があるが、まさにそれが全日本プロレスで、馬場の急死の2年の間に団体としてはほぼ崩壊した。50周年のうち、直近の20年は迷走の歴史であり、創設者の馬場の思いを受け継ぐ団体ではない。 
いわばブランドだけが残り、その看板を頼りに運営会社がなんとか興行を続けてきたのが実情である。
四天王ではか川田利明だけが残留、川田が試合が出来なくなり、四天王の次に位置していた秋山準が戻ってきたがこの50周年には参加していない。この大会の中心は小橋建太。三沢が全日本を退団して作った団体、NOAHに参加したが引退したが、全日本に協力しているのだ。この日、武道館に登場したのは川田利明、田上明、グレートカブキ、試合をしていたのは大仁田厚、グレート小鹿、井上雅央、越中詩郎、川田利明と共に残留した渕正伸、観客席には武藤敬司、もう何だかリアルなプロレスミュージアムである。大森隆男も試合をしていたが、ここに高山善廣がいればと涙ながらに思った。
そして何よりスタン・ハンセン。
馬場の亡くなるまでの数年間は四天王とハンセン、ベーダー、スティーブ・ウイリアムズ、テリー・ゴディが折り重なるように三冠の価値を上げていった。こうして名前を数えてみると、ハンセン以外の外人は鬼籍に入っていることになんとも言えない気持ちになる。ハンセンが年長だからだ。三沢もいないが、他の三名もけして現役が長かったわけではない。

日本で最も成功した外人レスラーをあげるとしたら、私はハンセンだと思う。どういう基準で選んだとしてもハンセンだろう。試合数、勝利数、獲得タイトル数、稼いだ金、観客動員寄与率、色々な指標があるかと思うが全ての指標でトップになるだろう。総合格闘技又はボクシング、相撲を入れてもそれほど劣後することはないとも思う。
何しろハンセンは馬場から全日本の株を分けてもらっていた。ビジネスとしてのプロレスに関して馬場の重要なパートナーであった。ハンセンとしてもこの国で活躍したキャリアを誇りにしている。プロレスファンはハンセンを愛し、ハンセンは日本をリスペクトした。こんな素晴らしい関係はないだろう。

そのハンセンが全日本50周年武道館の三冠戦の立会人として姿を見せた。ロープを跨ぐのもしんどそうだった。肩と膝の関節は人口のものだというが、そのせいだろうか。しかし大柄のがたいは小橋と並ぶと堂々としており、現役とはまた違ったレスラーの風格のあるものだった。
今年はジャンボ鶴田の23回忌の記念興行で来日予定があったハンセンだが、コロナで中止となった。しかし今回は元気な姿を見せてくれた。喜ばしいことである。これからも元気でいてほしいと願うばかり。
今日においてプロレスを語ることは、振り返ることでしかなくなってきているのだが、個人的にはハンセンを軸にプロレスが栄えていた時代を多面的に詳しく思い出して見ることは面白いことではないかと思っていた。そんな思いがあって書き物のタイトルをつけた。

そんな時に飛び込んできたアントニオ猪木の訃報。
79歳だったというが、人の何倍もの経験をしてきた男の最期である。
昨日9月30日はジャイアント馬場、アントニオ猪木がデビューした日だった。1960年のことである。62年前であるから、70歳以上の人の記憶に僅かに残っているのかもしれない。馬場が亡くなった1999年に引退。引退後も格闘技界には猪木発の話題が多かった。

https://www.nikkansports.com/m/battle/news/202210010000835_m.html?mode=all

ハンセンという視座から日米のプロレス、新日全日を振り返る時、男たちの生き様がより立体的に蘇るのではないかという直感に頼って試作する。
近いうちに次回をアップ予定。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?