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スタン・ハンセンとその時代 2

スタン・ハンセンがプロレスラーとしてデビューしたのは1973年1月1日だとされている。生まれたのは1949年だから24歳の時だ。
ジャイアント馬場とハンセンのシングル戦は1982年の2月であった。デビューから数えて9年、ハンセン33歳。この馬場戦こそ、ハンセンのプロレスキャリアで重要だった試合はなかったことだろう。
それは馬場にとっても同じだった。40歳を越え、衰えをしてきされる声は足元のテレビ局からも強くなってきた。レスラーとして、そしてプロモーターとしてこの先どれだけできるのか、その評価がハンセンとの試合で答えをだそうとしていたのである。

前年の12月に新日本プロレスの契約切れ直後に全日本プロレスの1981年最終戦、世界最強タッグ決定リーグ戦の優勝戦であるザ・ファンクス組とブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカー組のセコンドとしてハンセンが登場した。場所は蔵前国技館、青コーナの野獣コンビの入場、スヌーカーの後にチェーンを振り回しながらブロディ、そしてハットをかぶった大男、いみじくも倉持アナが「ウエスタンハットの大男がいます、ハンセンです!、なんとこの蔵前国技館にスタン・ハンセンが現れました」とい衝撃の映像。たぶんこんな感じだったよ、くらいの私の記憶。ビデオなんて家にない時代、記憶だけが頼りだが脳裏には鮮やかに残っている。が、正確ではないだろう。おそらく捏造があるだが、そんなことはどうでもよい。大筋は間違っていない。
何も知らないというのはなんて良いことだろう。土曜日17時30分というなんとも半端な時間帯の全日本プロレス中継を見ている人は多くなかったはずである。私の学校のクラスにも部活にも全日ファンは少なかった。一般的にも土曜日の17時30分に家にいて、テレビを見ているという人はそれにあわせて生活をしている人しかいないと思う。
当時東京スポーツか週刊ファイトでのプロレス情報が一番早いメディアだった。ネットはもちろんない。週刊ゴングも週刊プロレスも1985年にならないとでてこない。一般の新聞、スポーツ新聞ですら報じないプロレス情報、地方の中学生だった私はマイナースポーツのなかのマイナーな全日本プロレスの試合を土曜日の17時30分という時間にテレビでしか情報はなかった。
恐らく駅売りの東スポには蔵前大会の結果は報じられていたはずだが、当然そんな東京スポーツをしるわけがない。私が大きな大会の後に駅に東スポを買いに行くのは、少したってから椎名誠の「さらば国分寺書店のオババ」で東スポの見出しについてのエッセイを読んでからであった。
つまりなんの情報もなく、ハンセンが来た、のを見たのである。今、テレビを通じてあれほどの衝撃を受けることはできないだろう。すべてが情報化されてしまうことが当たり前になった世の中はつまらない、とも言える。
余談だが、ハンセン登場を倉持さんは知っていたんだよね、とか数年後、誰かと話したことがある。日テレ関係者は知っていて、それで番組作っているのだから当然、倉持さんも山田さんも知っていた、知らないのは俺たちだけだったのか、ということなのだが、私は今では倉持さんは本当に知らなかったのではないか、と考えている。後々、倉持さんのエッセーを読んでそう思った。番組プロデューサーは倉持さんを視聴者と同じ感覚で実況させたかったということが書かれており、自身も一般視聴者と同じように驚き、興奮したのだと。確かにそうだった。
さらに加えると、当日に馬場からブロディとスヌーカーにハンセンの参加が伝えられたとハンセンは自著に記述している。慎重居士と言われた馬場らしい話であり、現場にも漏らさなかった情報は当然日テレも厳重に管理されていたと想像することができる。
1981年12月13日の蔵前国技館に戻ると、青コーナ外人サイドにはハンセンがいた。そしてリングアナからの選手コール、いつもの通り静かにスヌーカーが手をあげ、ブロディーはチェーンを低い位置で右へ左へあやつり雄たけびをあげている、そしてファンクス、5倍くらいの量の紙テープが投げ込まれおそろいのスタジャンを脱ぐファンクス。
再び知らないというのはうらやましいことである。ファンクスとスヌーカーは同世代、3つ年下のブロディ、さらにその3歳下のハンセン、ファンクスはハンセンを全日に仲介したブッカー、ブロディもファンクス経由の選手、スヌーカーはその当時のNWAにおいてトップ選手だった。この野獣コンビはNWAで抗争を繰り広げ人気カードとなっていた二人であったが、馬場がこのチームをファンクスの次のポジションに据えたのだった。
そんなこととは露知らず、私はテレビ画面を網膜を通して脳に焼き付けることに全エネルギーを注いだ。その感覚が今でも残っている。野獣コンビ優勢で進む。圧倒的なパワーと運動量、打撃の重さ、ファンクスのレスリングを相手にせずひたすらに攻めてゆく、それに対してカウンター気味にドリーのエルボーから打開したり、テリーのナックルで若干ふらつかせたりというファンクスファンにはたまらない展開であった。
前々年の最強タッグはブッチャーとシークの凶器攻撃を耐え忍び、逆転でファンクスが勝利した。当然、ファンクスが劇的な勝利を納め、我々を感動させるのだ、と私は期待していた。しかしそれがとても心細く、なんだか負けそうだ、という気持ちになるくらい、野獣コンビは圧倒していった。
なんどかテリーが場外にでて、ハンセンと近いところでブロディとやりあっていたが、「ハンセンは手をだしません」と倉持アナが実況した通り、いつ手をだすのか、ださないのか、いや必ずやるはずだ、というその時を待つかのような空気になってきた。
ハンセンが手をだして、それで野獣コンビが優勝、なのか、ハンセンにやられるがそれを跳ね返してファンクス優勝か。知らないというのは本当に良いことだ、プロレスを本当に楽しんでいたのだ。
試合も10分を超えたころだったか、何度目かの場外乱闘、リング上ではドリーとジミーがいたが、リング下ではテリーがブロディにつかまっていた。紙テープが足元で分厚く堆積しているところで、カメラマンが集まっていた。その中心にハンセンがいて、ちょうどよい距離からブロディがテリーを振り放った、テリーはそのまま進みハンセンが左腕を振りぬきテリーの首をかった。倒れるテリー、大量のカメラのフラッシュ、一仕事を終えたハンセンとブロディは次の動きに移っていた。そのまま紙テープにまみれてのたうちまわるテリーが画面に映し出される。
ああああああああ!立て、立ってくれテリー。
リング下でなにがおこったのか知らないドリーはなんとか、反撃しスヌーカーをダウンさせ、ブロディにもエルボーを打ってリング下に落とす、で、テリーがリング下で紙テープでミノムシみたいなってのたうちまわっているのを発見、一旦降りるが諦めてまたリングに戻る。
そのあとは2対1となり、最後まで抵抗するも最後はブロディのキングコングニードロップ(倉持)でカウント3。野獣コンビの初優勝、ハンセンもリングにあがり勝利を喜ぶ。

そこに馬場と鶴田が全日本のジャージ姿でリングに突入、馬場がハンセンをつかまえ脳天からチョップを繰りかえす、、ハンセンもどつき返すが馬場の勢いが勝りハンセンの白いシャツがみるみるうちにハンセンの額からでた血によって赤くなっていった。
打ち鳴らされるゴング、鶴田とブロディがキックやらチョップを応酬、テレビの画面内では混乱の極致、ファンクスはみえなくなった。
完全に馬場とハンセンの戦いの構図にかわった。

40年以上も前のことであるが、どうもまだまだ自分の中にあのテレビ観戦の興奮の火種が真っ赤に残っていることを発見してしまった。
1982年のことは次にまた。


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