見出し画像

作家も三日書かなければただの人。毎日書くことについて、司馬遼太郎が語ったこと。

 先日、司馬遼太郎さんの勉強法を紹介しましたが、その時、いろいろと書棚から司馬さんの本を出してきて、パラパラ見てたんですが、僕にとってとてもためになることが書いてあったので、共有したいと思います。

 それは、毎日書くことの意味なんです。

というのも、noteをはじめたときには、しばらく書くことをやめていた僕は、リハビリのために毎日書くことを決めたんですが、それがひじょうに辛くて2度挫折しました。

 講演の仕事がたて続けに入ったり、海外に旅行に行ったりするときに、noteの文章をまとめて書いて予約投稿します。例えば、一気に一週間分を書いて、講演の仕事で出張して一週間書かない、ということをすると、日常生活に戻ったときに、書くことが苦痛で仕方なくなり、そこから毎日投稿ができなくなりました。人前で話すことと、文章を書くということは、違う能力を使っているなと思ってましたが、今回、司馬遼太郎さんの講演文を読んで納得できました。また、毎日書く大切さも腑に落ちました。
 
 noteの連続投稿は、3回目の正直で昨年の6月から再びチャレンジしております。今は、もう、楽しくなってきている状態でして、やっぱり継続は力だなあと実感しているのです。

 それで、今回紹介するのは、1997年に発刊された週刊朝日増刊「司馬遼太郎が語る日本」未公開講演録愛蔵版Ⅲ」に収録されている「法然と親鸞(上)」の冒頭部分から抜粋です。作家を目指す方の参考になればと思います。

法然と親鸞(上)司馬遼太郎

 話すということと文章を書くということは、同じ言語中枢が働いてできることなのでしょうが、全く別の場所から生まれるような、そんな感じがすることがございます。私がこうやって皆さんの前でお話ししたあと、すぐ原稿を書かなくてはいけないとしますね。
 この場合、なかなか文章は出てきません。三時間ぐらいたって出てくる格好でして、しゃべっているときには私の頭はしゃべる機能で満たされているんでしょう。文章を書く機能が小さくなっているに違いありません。そして、文章を書くときには、やはりしゃべる気にもなりません。
どういうわけでしょうね。
しゃべるのも文章を書くのも、同じ言語なのです。
私はその文章を書いて世を送っているわけですが、文章を書くことがそん
なに難しいかと人に聞かれれば、こう答えます。
「初めは難しかったが、いまはちっとも難しくない。文章にはリズムというのがあるようだ」
体の中に何か楽器のようなものがあり、リズムがあり、文章はそれに乗って生まれるものらしい。
三日も文章を書かずに旅行ばかりして遊んでおりますと、
四日目に帰ってきて原稿を書く場合、脂汗が流れるほど四苦八苦します。
ところが文章を毎日書いていますと、そういうことはありません。
三日も遊んでいますと、体の中にあるリズムが消えてしまっていますね。
文章とかリズムとか言いますと、大層に聞こえますから、簡単な例で言います。
タクシーの運転手さんに聞いたとがあります。
「運転手さん、あなたが一日休んで次の日に運転するとき、運転しにくい感じがありますか」と聞いたら、
「そりゃあ運転しづらいです。走り始めから三十分か一時間ほどは体が反射しませんから、実に気を使います。向こうから自転車が来るからハッとして避けるとか、毎日のリズムのなかで体や精神が動いているけれど、一日でも休むと、そのリズムが消えてしまって、最初は神経を使う。うまく運転できない」と聞きましてね。ああ俺の小説と同じだなと。小説も運転も同じです。つまり、自分でつくったリズムが体の中にあるんですね。
そのリズムにさえうまく乗せれば、私の見たこと、感じたこと、
書こうとしていることがうまく文章になっていく。

週刊朝日増刊 司馬遼太郎が語る日本未公開講演録集Ⅲ 法然と親鸞(上)より

「法然と親鸞」というタイトルからして、この後、話はどう続くのか気になりますが、司馬さんの法然LOVEの話から、トルストイと親鸞のセックスに苦しんでいた話、唯円の歎異抄は読み上げると凄い話、真言密教の空海、禅宗の達磨大師、日蓮宗の日蓮の話、そしてお釈迦様の悟りに近づくためにいろんな宗派があるけど、普通の人がお釈迦様に近づくためには、やっぱり浄土宗じゃないかと、法然最高!という歴史小説家、司馬遼太郎さんの宗教観信仰観が語られた大変珍しく、とても深い講演の話が続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?