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ターナーは安値の仕事を軽視しなかった。


イギリス・ロマン主義の大画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの傑作『ノラム城、日の出』北イングランドのトゥイード河畔近くにあるノラム城を描いた作品(Norham Castle, Sunrise) 1835-40年頃
78×122cm | 油彩・画布 | テート・ギャラリー(ロンドン)

ターナーは超天才でした。

「印象派」という言葉がクロード・モネの「印象 日の出」の発表から始まりましたが、これが1872年のことです。

ターナーの「ノラム城、日の出」は1835年頃ですから30年以上も先取りしていたのです。

モネは、普仏戦争勃発のために英国へ避難したときに、この作品を見て強い影響を受けたといいますから、印象派の元祖なところがありますね。

朝陽によって逆光となるノラム城、反射する光は、青、黄色、赤が自然と溶け合うように描写されており、この調和的な色彩の一体感は、光を波長順に分解したスペクトル的な理論に基づいているそうです。

一度、ホンモノをじっくり鑑賞してみたいものです。

この作品は、ターナーがイギリスに寄贈した初期から最晩年までの作品が常設展示してあるテート・ブリテンにあります。

そんな天才ターナーの下積み時代について、サミュエル・スマイルズの「自助論」完全版より抜粋します。

夢を追いかける活力にしていただけたら幸いです。

ターナーは安値の仕事を軽視しなかった。

 ターナーは同じく風景画を描く名人であり、「イギリスのクロード」と称される人物であるが、勤勉に苦労を積んでその技術を身につけたのである。彼の父はロンドンの床屋だったので、子供の頃はその仕事をしていた。ある日、客が来て、彼が模写した画を見て大変興味を引かれ、彼の好みに従って画を学ばせることを父親に勧めた。

 ターナーは、貧しい生活の中で数多くの困難に遭ったが、そのために挫折することなく、常に努力をして絵を学び、貧しさを嘆くことなく仕事に専心した。
 
 喜んで人に雇われ、他人の画の上にインディアン・インク(墨)で空を描き入れ、一晩で半クラウンを稼ぎ、おまけに夕食も食べさせてもらった。そのようにして生計を立てながら、技術を磨くことを目指し、また旅行案内書や年鑑を初め、どんな種類の本にも安い報酬で口絵を描くことを常としていた。

 その後、ターナーは自ら「私は昔、安い値段の画を描き、十分に力を尽くしたが、そのことが私にとって最上の練習となっていた」と言っていた。

 ターナーは、報酬が少ないものであっても決して筆に任せてぞんざいに描かず、必ず注意深く最善を尽くした。たとえ一歩でも、後日の作品は必ず前日の作品よりも進歩させようと決意していた。

 思うに、人がこのようであれば、成し遂げられることは必ず多くなり、数多く仕事をすれば必ず熟達するだろう。従って、登る朝日の光のようにターナーの画才はますます引き出され、画の幅が広くなり、ついに名画家となるまでになった。

 ターナーの画は必ずしも称賛を必要としない。彼がイギリスに遺した素晴らしい絵画のギャラリーは、そのままでターナーの記念碑として永遠にその名声を後世に伝えている。

サミュエル・スマイルズ著「自助論」完全版 訳/中村正直  現代語訳/渡部昇一・宮地久子(教養の大陸BOOKS)より

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