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生きた証として社会に爪痕を残す

ご紹介や打ち合わせなどで、初めましての方も増えてきたので、私のことを知っていただくために書いてみることにしました。

現在やっていること

パキシーノという会社の代表をやっております。2022年に独立し、以下のようなご支援をしております。

  • 新規事業を作ったことがないお客さまの新規事業立案支援

  • Webサービスを作ったことがないお客さまの開発支援

  • エンジニア採用に悩む企業さまの採用支援

自分語りとなってしまい恐縮ですが、どんな人間か少しでも知って頂けたらと思い、記してみます。

生まれ〜小学生まで

生まれですが、北海道旭川市になります。生まれて3ヶ月ほどすると、父の転勤で東京都練馬市に移り住みました。さらに4歳の頃には埼玉県草加市に移り、20年以上埼玉に住み続けることになります。

父は証券会社の営業マン、母は専業主婦、一つ下に弟がいるという家庭でした。

父は物静かで、どんなときでも仕事を休まない強い人間で、母はひらすら明るくどんな人にもオープンな人間でした。

小さい頃から無駄に責任感が強く、指揮をやったり、クラスの代表やったり。しかも本や勉強が非常に好きで、読書ばかりしているという。良くも悪くも遊びのない真面目な子供でした。

運動に関しては、小4ぐらいのときからバスケをやっていました。
いつも遊んでいた仲間たちと当時ミニバスをよくやっていたのと、兄弟のお兄さん方が学校に教えに来たこともあり、よく考えず勢いでバスケを始めました。

あとは年子ということもあり、よく弟とゲームを一緒にしていました。中の良い友だちみたいな感じで、二人でスポーツゲームするみたいな生活が多かったように思います。

勉強・バスケ・ゲームでこの頃は大体一日を終えるという至って普通の小学生でした。

中学時代

小学校は公立だったのですが、受験もせず、中学もそのまま公立に進みました。

中学時代はほぼ勉強とバスケの記憶しかないですね。県大行くぐらいのチームで、周りのメンバーが上手かったこともあり相当練習にのめり込む毎日でした。

ジョン・ストックトンというアシストの名手に憧れ、背番号は12番。ストックトンになりたいと憧れてました。

また勉強も真面目に行い、給食の残りのパンを帰り道に食べ、そのまま塾に向かい、勉強するという。この当時はほんと体力ありましたし、素直だったんだなーと今になって思います。

3年になると高校受験も意識し、本格的に勉強をし始めます。そして、合格をもらった栄東高校に行くことになります。

高校時代(栄東高校)

宇都宮線で、大宮のさらに北にある栄東高校に通うことになりました。朝練のために5時半に起きて、朝一で練習するという、非常にバスケ熱心な青年でした。

また勉強も普通にしておりました。高校受験で行きたいところに行けなかったという思いもあり、2年生の頃から、そろそろ真面目に勉強しないとなという感じで、また塾に通い、勉強する日々が始まりました。

このあたりまでは、勉強・バスケという本当に遊びのない真面目な人間でしたね笑

このとき行きたかったのが慶應でした。色々な大学の過去問を解いたのですが、英語の問題がノーベル賞作家の作品を扱ったり、国語ではなく小論文であったり、非常に独創的かつ、記憶力だけでは合格できない問題で構成されてました。

浅はかな自分はそういった問題を作れる教授がいる大学なら、より深い学びが得られるだろうと思い、慶應を目指すことにしました。今考えると当たり前なのですが、将来やりたいことではなく、よく分からない理由で大学を選んだことが、後々ダメージになって返ってきます。

非常にストレスも多く、辛い時期でしたが、なんとか合格。合格の通知を受け取ったときの安堵は半端ないものでした。

大学・大学院時代(慶應義塾大学)

合格までは良かったものの、目的がないため、大学は授業が面白くなくなり、ほとんど授業に出なくなりました。

唯一救いがあったのは、大学1年のときに買ってもらったVAIOでインターネットの楽しさに触れ、エンジニアリングを学び始めたという点です。

当時は「ホームページ」という形で、自分のサイトを持ち、掲示板や日記で交流するのは一部の人で流行ってました。自分でもやってみようということで、HTMLやCSSを学んでいきました。

そこから、大学内のコンピュータの相談員をやったり、企業や学会のウェブサイトを作ったりするなどして、徐々にコンピュータ関係の仕事をいただけるようになりました。

また、3年からゼミで勉強の面白さを取り戻すことになります。
専攻は図書館情報学というもので、文系と理系が合わさったような学問です。小難しい概念を深堀りできる文系的な楽しさと、検索の仕組みなどの理系的な楽しさが合わさり、やっと学びたいことが学べるようになってきました。

結果的に大学院にも行くことになりました。随分長く学生としての時間を過ごしてしまっていました。

修論提出したはいいものの、就活もしてないので、時間ができ、どうしようと思っていたところ、mixi人狼というものに出逢います。

それが非常に面白く、楽しんでいるうちに中の人達と縁ができ、ファンコミュニケーションズで働いてみたいと思い、結果エンジニアとして入社することができました。

経歴もまもとにないなかで、受け入れてくれた当時の上司には本当に感謝しており、このときがなければ、おそらくまともな社会人生も歩んでいなかったと思います。

エンジニアキャリアのスタート: ファンコミュニケーションズ時代

当時はadocavoというガラケー向けのアドネットワークがあり、そこでエンジニアをしていました。

最初はPHPと呼ばれる言語で、サービス開発をしていたのですが、サービスを安定させていくことのほうが向いていることに気づき始めました。

広告のサービスなので24時間動き続けてないといけないのですが、0時をまたぐと予算枠が戻ったりして、一気に負荷が高くなり、広告が出なかったりしました。
また、データベースも冗長化されておらず、メインのDBが落ちると、サービスが完全に止まってしまうという状況で、実際に一度その障害も起こしたりしていました。

そういったことを一つ一つ対応していくのが非常に面白く、サービスはどんどん安定化し、インフラ寄りのエンジニアとしてキャリアを歩んでいこうと考え始めました。

一方で仕事に慣れてくると、外の世界が気になり始めました。
当時から、エンジニアの勉強会というものがあり、自分たちが学んだ知見をLT(ライトニングトーク)という5-10分ぐらいの発表で伝えるということが流行っていました。

自分より優秀な方々が新しい技術を使いながら、どんどん外に発信している姿に惹かれ、そういう世界に移りたいと思うようになります。

そのときにqpstudyというインフラ系のコミュニティがあり、そこに参加させて頂きました。そのなかでサイバーエージェントで活躍されている方々が非常にかっこよく見え、自分も次のキャリアとして、そこでチャレンジしたみたいと思うようになります。

そして、面接を受け、サイバーエージェントに入社することができました。

グロース事業のチャレンジ: サイバーエージェント時代

当時のサイバーエージェントは広告代理店のビジネスだけではなく、アメブロを始めとするアメーバ事業が非常に伸びていました。

アメーバピグというアバターサービスも同様に流行っており、そのエンジニアとして働くことができました。

ここでは、大規模なサービスを安定化させるための技術力や発信力、伸びている事業の盛り上がりを肌で感じることができました。

また、新卒・中途含め、大きな裁量を与えつつ、会社も人も成長していく仕組みを学べたのは非常に大きかったように思います。

今考えてもトップクラスのエンジニアたちと、切磋琢磨しながら、この現場に携われたことは感謝しかないです。

5年ほどサイバーにいたときに、より世界で戦ってみたいと思うようになりました。エンジニアとして生き残るためには、世界に通用するスキルを持たなければならない。また、ピグも楽しかったけど、さらに多くの人が使うサービスに携われないかと考え始めました。

そして、外資や国内のスタートアップ色々受けたのですが、ご縁を頂けたメルカリに入社することになります。

グローバルテックカンパニーへの成長: メルカリ時代

メルカリでやってきたことは以下にもまとめたのですが

大きく分けると以下の経験を積むことができました。

  • ① エンジニアから経営戦略のキャリア

  • ② スタートアップからメガベンチャーになる過程

  • ③アジャイルなどのソフトウェアのモノづくり

①についてはエンジニアだった自分が、組織の成長に伴い、組織課題・経営課題と異なった課題に向き合うことができました。

入社した当時は300名程度で、1チーム6~7人の小さなチームでした。それがあれよあれよと言う間に大きくなり、成長痛という名のものに色々と課題が出てきます。

小さいチームでできていた開発はいつからか、コミュニケーションで苦しむように。短期目標しか見えず、社員はどこに向かうか分からなくなるように。

そういった課題を、グローバルスタンダードとしてのアジャイル開発の導入、中長期戦略としてのロードマップの刷新という形で改善していきました。

大好きな会社だからこそ、個人で解決できないならチームのレベルで解決、そこで解決できないなら事業部のレベルで解決、それでもできないなら経営のレベルでと、常により良くしようとアクションし続けていきました。

一エンジニアに過ぎない自分が、メルカリというサービスやカルチャーを作ってきた経営陣とともに、改めて良いサービス・カルチャーを作る。そのような一生に一度の経験を積ませてもらったことは感謝しかないです。

会社経営: パキシーノ(現在)

メルカリにも5年近くていて、そろそろ次のキャリアを考えたいと思っていました。特に経営の現場を垣間見ることができ、自分でもチャレンジしたくなっていきました。結果、2022年3月に起業することにしました。

起業後から2年はひたすら目の前のお仕事をこなすことで精一杯でした。

IPOや世界展開含めてグローバルに戦えるサービス・会社を作りたいものの、まず生き抜かないといけない。

ありがたいことに色々と声をかけて頂き、以下のようなことをしております。

  • 新規事業を作ったことがないお客さまの新規事業立案支援

  • Webサービスを作ったことがないお客さまの開発支援

  • エンジニア採用に悩む企業さまの採用支援

夢を見つけて夢を叶える

そして、先日(2024年現在)やっと自社でやりたい領域が見つかりました。

多くのサービス開発現場では、顧客との距離が非常に遠いです。
そのため、より顧客の声を事業に活かすお手伝いをしております。たとえば以下の悩みを抱える企業さまのご支援を開始していきます。

  • そもそも顧客に会いに行く方法が分からない

  • 会いに行ったが聞き方が分からない

  • 会いに行ったりデータは取ったが、その活用方法が分からない

自分は学生の頃から何がやりたいか分からず、日々のご縁でなんとかここまで生き抜いてきた気がします。そういった意味でも「夢」みたいなものはありませんでした。

ここまで得られた経験をもとに、自分の人生をかけて、最後にチャレンジしたいことは何かと考えたときに、上記の「お客さまとの距離を近づける」というところであれば、人生を賭けられると心から思いました。

タイトルに書いた通り、「生きた証として社会に爪痕を残す」思いで、命をかけてチャレンジをしております。

今度みなさまとお会いすることができたら、叶えたい夢についてもぜひ聞かせてください。

長文になってしまい恐縮ですが、ここまで読んで頂き、ありがとうございます!
お会い出来た方とのご縁を大切に、引き続き目の前のことに精一杯取り組みますので、どうぞよろしくお願いいたします!

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