これからを生きる

 物心ついてから十三才まで狭くてボロい文化住宅に住んでいた。

 四畳半と六畳の二部屋に五人家族で住んでいたからかなり厳しいものがあった。年の離れた兄弟が泣きわめき大岡越前のテーマソングがガンガン聞こえる中では、宿題すらまともにできなかった。遊びに来たともだちに、トイレのドアが見えるところで物を食べるのかと笑われた。自分はこのまま、なんとなく大人になってなんとなく高校くらいは卒業して、結婚相手が見つかったらこの家を出て行くのだろうとぼんやり思っていた。

 ある日のこと、ともだちの家に遊びに行ったら、おばちゃんが留守だった。代わりに会ったことのない、よぼよぼのお婆さんが奥から出てきた。私が名乗ると、「新作とこの子やな」と目を輝かせた。

 幼い私には死にかけに見えたお婆さんは、ともだちと遊んで帰る私の後ろを、浮世絵で見た婆やみたいにお土産のお菓子やら卵やらを抱えて着いてきた。途中で同じくらいの年寄りにいちいち「新作とこの子や。うちの孫と仲ええねん」と自慢しながら。

 この体験は貧乏たれの子だった私には衝撃だった。祖父に尋ねると、新作というのはうちの先祖が代々名乗った名前らしかった。幼い私は時代劇を思い浮かべ、心密かに(ご先祖様に恥ずかしい人間にならないように生きなくては……)と決意した。あんな環境で私が(一応)グレなかったのは、このときの体験が大きく影響したと思う。

 私たちが文化住宅に住んでいたのは母の我が儘のせいだった。父と母は結婚当初、父の家に住んでいた。薪で風呂を焚くのは次男の嫁である母の仕事だったが、風呂場から「今度の嫁は風呂焚くのヘタやなあ」という声が聞こえてきたのにキレて、家を出たのである。

 自分は嫁であって下女ではないという母の言い分は、当時の女性としては我慢が足りなすぎるが、共感はできる。しかし、それにしてもそのために子供たちを長年にわたって劣悪な環境に置いていたのはどうかと思う。私にはできないし、したなら自分も働いてもう少しマシなところに住んだだろう。

 中学に上がるとき、さすがの母も狭いぼろ屋に音を上げて、私たち一家は父の実家に戻った。私は自分が本来いるべき場所にやっと戻れたとほっとした。代々あの新作が住んでいたというところに戻ったのだ。

 その実家も直系は絶え、代々住んでいた土地も去年、手放すことになってしまった。何十年も入ったことのない建物に入ると、埃に埋もれて扁額が出てきた。新作も含め、先祖の名がある。私の経済状態では大きな額の形でいくつも保管し続けるのは難しいので、職人さんを紹介してもらい、補修、裏打ちして紙の状態に戻してもらった。

 いま私の手元には、たまたま私がレスキューした文書が数枚残ったが、先祖がどんな人だったかは、もうほとんどわからない。自分の家は古い家ではないと言う人がいるが、どんな人も突然生まれてきたわけではないから遠い先祖に繋がっている。どこかの時点で記録が途切れただけである。私はここで記録を途切れさせたくなかった。

 私が先祖のことを聞きに行ったとき、祖父はいつものように古い大福帳などを燃やしていた。商売の才覚がなかった祖父は還暦には既に隠居し、後を継いだ伯父はアメリカから機械を輸入してそれまでの商売をまったく違った方法に切り替えた。洋風に建て替えられた家の庭の片隅で、来る日も来る日も古い紙類を燃やしていた祖父の喪失感を思うと胸が締めつけられるが、当時の私は無邪気に反故の中から一銭五厘などの古い切手を捜して喜んでいた。

 祖父は私に先祖のことをほとんど教えてくれなかったが、それは説明してもまだわからない年齢だったこと以外に、一つの信念があったのだと思う。祖父は「乞食の先祖自慢したらあかん」と言った。これは、いまの社会には合わない表現だが、落ちぶれたときに過去によかったことばかり自慢していてはいけないということだ。いままでより、これからを大事にして生きなければならないということである。

 もうなくなってしまう実家を片付けていたこの二年間は、私の人生で最も「乞食の先祖自慢」の感情が強くなっていた時期だった。そうでなければ乗り切れなかった。ただ古いだけで偉人を輩出した家でもない。周りにいた人は、さぞうんざりしたことと思う。

 いま私の「実家」は数枚の文書となって一つの箱に収められている。大切に伝えるつもりだけれど、ふだんはこの箱の存在も忘れているだろう。でも、それでいいのだと思う。私は、私の文章を書き、短歌を詠み、これからを生きていく。

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ありがとうございます。いつもつましい暮らしを送っていますが、くたびれたときは、ちょっといい喫茶店で休憩させてもらうことにします。

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