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子供達の笑顔を増やすストーブのこと

僕が子供の頃、それは昭和50年代くらいまでのことであるが、川口市には木型屋さんという商売で生計を立てている家庭がたくさんあって、仕事で出た木屑を薪として利用して沸かす風呂が普通に使用されていた。僕の母型の実家もそうであった。離れの風呂場は木型の材木置き場の横に作られており、薪をくべて水がゆっくりと湧いていく様子を確かめながら恐る恐る風呂に入ったことを記憶している。うちだけではなく周りの家にも同じような風呂があったから、屋根の上には粗末な煙突がたくさん突き出していた。夕暮れ時、通りすがりの家々の煙突に白い煙が上がっている風景があった。

煙突が家々から追放されたのは、ガスや電気が普及して、薪を使うことがなくなったからである。いわゆるエネルギー革命である。ソーラーパネル発電、エアコンや冷蔵庫、電子レンジにIHヒーター、そしてエコキュートなどの普及により、人間は炎という初元的なエネルギーから隔離され極端な便利さを実現したのである。しかしながらこうした住宅は家が家であるための中心を書いているように思われてならない。

今更昔のような暮らしに戻ることはできないだろう。でも寒い時に暖をとるための薪ストーブくらいであれば昔のスタイル、つまり薪を燃やすという原始的な行為を暮らしの中に取り込むことはできると思うのである。薪ストーブはただ単に暖をとるだけでなく、その上で料理もできる。揺れ動く炎を見ていると、それだけで何時間も飽きることなく過ごすことができる。それに現代人の疲れた心も安らげてくれるだろう。だからこそ場所は通常テレビが置かれる場所、つまり家の中心がいいと思う。

昨今の暮らしでは、必ずしもテレビは中心ではなくなった。というのも各自が持つスマホを通して受信される情報によって、情報過多の中の情報不足、結果的には貴重な経験や記憶を逆に喪失しているのではないだろうか?テレビが良かったわけではないが、テレビには確実に家族を集める効果はあった。しかし現代のように集まることを捨て、極端な個の世界への没頭を選択可能な状況の中で家族ですら会話を交わすことが減ってしまった。かつては暮らしの中で自然に得ることができた土塀に苔が生えるように成熟する記憶も、風雨にあらわれる荒壁のように時を刻んでいく経験もないのである。薪で風呂を焚くこともなく、井戸水を組むこともなく、テレビの周りに集まってサザエさんを見ながら談笑することも無くなった子供達は、密かに明るい虚しさを感じているのではなかろうか。薪ストーブの煙突を増やそう。それは子供達の笑顔を増やすことにつながるような気がするのである。

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