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10年ごとに押し寄せるガリ勉の波

塾もない村の、村はずれの集落で高校生まで生きたわたしは、特別に勉強する子どもではありませんでした。毎日生きることが勉強だ、なんて中学3年の受験シーズンでも夜9時には寝ていたような人間です。でも、勉強ってやるべきときが人生のなかで何度かやってくるのでした。

大学受験は人生初のガリ勉体験 - 10代のおわり -

のらりくらりと高校生になったわたしは、家から最寄り駅まで片道11キロの上り下りの田舎道を15歳11ヶ月まで40分自転車に乗り(16歳からは無事に原付)、1時間に1本しか電車が来ない無人駅から20分ローカル線に乗って通学しました。部活もあるし、学校に行って帰ってくるだけですべての体力は枯渇。勉強は授業中に集中しておけばまぁなんとかなると思っていました。大人のわたしならわかります。なんとかは、なりません。わたしは偏った人間で、オタクレベルの日本史と国語の成績は申し分なく、テストの結果が貼り出されると上から名前を探せばすぐにみつかったものです。しかし、英語ときたら・・・。下から数えた方が早い。それなのに進路指導の先生の口車に乗せられて、行きたい大学ばかり受験したものだから、すべてに不合格をいただきました。いわずもがなあんな英語の成績で受け入れてくれる大学なんてあるわけがない。
19歳の1年間、予備校に通って、難関私大に受かるための英語の技術をひたすらガリ勉することになったのです。朝4時に起きて5時半の電車に乗って6時半に予備校の玄関に並んで、英語の授業で一番前の席を取るために6階まで階段をダッシュ。本当に1年間、英語だけを勉強したと言っても過言ではありません。人生初のガリ勉体験。ただ、あの受験英語が、わたしの人生にとっては、「大学に受かるためだけのもの」であったことがあとで証明されるのでした。

英語に翻弄されたガリ勉 - 20代のおわり -

受験英語のガリ勉のおかげで志望する大学に行けて、無事に成人したわたしは、子どものころから目指していた教師、にはならず、23歳で会社員になりました。ひょんなことから26歳から27歳にかけてニュージーランドで暮らすことになったのですが、そこでわたしをひねり潰したのが、英語という壁でした。このときのめった打ちは「開発学を学ぶ - エピソード0 -」に書いたので詳細は割愛します。とにかく、英語ができないことでつらいめに遭い、こんにゃろー! と一念発起、独学で英語をものにしてやれとガリ勉を決め込んだ20代のおわり。
え? ちょっとまってよ、あんた10年前にも英語のガリ勉してるじゃんっ、て話。そうなんですよ。だから、あの受験英語ってやつは、海外ではまったく通用しなかったんです。過去完了形とか現在完了進行形とかそういうのをあたまの中で考えているうちに、あごだけがあうーあうーってなって、白目むいて、話せなくなる日本人が山ほどいること、文部科学省にお伝えしないといけない、とあのころ思ったものです。ガリ勉は7,8年かかりましたが、「英語で仕事ができる」ってことで採用されたNGOで、海外留学していない履歴書を送ったのはわたしだけだったと聞いています。ガリ勉は役に立つ。

趣味のためのガリ勉 - 30代のおわり -

子どものころから、もともとがオタクレベルの日本史好きでしたので、文化遺産や史跡といった場所を巡るのが好きでした。大人になると日本だけでなく、海外のそれらに出かけていくことが趣味となり、そのための節約生活をしていたくらいです。日本史については自らプチ博士と思っていたので、史跡巡りをすれば人にも解説できるくらいの知識があって、楽しいのです。ところが海外では、世界史の教科書でちょっとみたことがあるレベルだし、備えてある解説は英語だし、日本の文化遺産や史跡ほど楽しめず悔しいと感じはじめました。観光するならその場所の歴史や地理を徹底的に学んだ方が面白いに決まっています。
そこで手をつけてみたのが、世界遺産検定。まずは4級、3級と受験してみて、意外と余裕じゃんと思いました。試験合格が目的ですが、付随してくる世界遺産の知識がわくわくで、これは続けたいと2級も受験。さすがに、ここから真剣に勉強しました。ここまでストレートに来たので、満を持して1級にチャレンジすることに。週末のセミナーを受けたり、図書館で教本を暗記したり、まとめノートを作ったり、久しぶりの必死の勉強が楽しくて楽しくて。こんなに楽しかったのは、趣味のためのガリ勉だったからでしょう。勉強した先には面白いことしかなさそうだったことが、モチベーションになりました。30代のおわりのガリ勉は、現実逃避だったのかもしれません。ガリ勉の甲斐あって、1級を一発合格したんだから、鈴木亮平には負けないよ(うそ、彼はマイスターだから負ける)。

暮らすためのガリ勉 - 40代のおわり-

流れ流れていまは、偉大なる世界遺産アンコールワットがある国カンボジアで暮らしているわけですが、暮らしてみて6年、自分を誤かしながらもそろそろまずいぞと思っていることがあるんです。それは、クメール語。仕事は英語だし、プノンペンにいればどこでも英語が通じるし、日本人だって4000人くらい住んでいるから何かあれば頼れる友人もいる。けれど、わたしの同僚は全員カンボジア人だし、プロジェクトメンバーはほぼカンボジア人だし、大学院のクラスメイトもみんなカンボジア人だし、いいかげんにせぇや、と思われてもおかしくないのが、「クメール語を話せ」ってこと。じゃあ、同僚や友だちに教えてもらえばいいじゃん、って思うでしょう? わたしもそう思っていました。でもね、甘えるんです、わたしのような人間はとくに。それから周りは英語を学びたいと思っている人たちだから、下手くそなクメール語で話しかけてみると、英語で返答が帰って来てしまうんです。
となったら得意のアレ。ガリ勉をはじめるしかないんじゃないか、と思いまして、カンボジア人の友人に先生を紹介してもらいました。ちゃんと安くないお金を払って自分を縛り付け、チカラ技で押し上ていこう作戦です。毎年自分の誕生日には大学院のクラスメイトと飲みに行くのですが、宣言してしまいました。「来年の誕生日にはわたし、クメール語でみんなと会話するから」。あ〜あ言っちゃった・・・。でも、こうでもしないとガリ勉モードに入らないので、自分の尻を叩いている、40代のおわり。

思い起こしてみたら10年に一度だった、というわたしのガリ勉記。次は50代のおわり、わたしは一体何をガリガリやるつもりなのか、それは10年後にしかわからない、ちょっとわくわくです。


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