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『文章でもなく、おしゃべりでもない、インターネットの「日本語」。』文=枡野浩一【初出「スタジオジブリ 熱風」2014年9月号】(無料公開中)

 歌人の枡野浩一と申します。短歌という伝統ある定型詩(五七五七七)を、現代の言葉で作っています。よく現代の言葉を「口語」と呼んだりしますが、私が短歌につかうのは「今の時代の書き言葉」です。真の意味でのおしゃべり的な口語は、あまり短歌につかっていません。自分では保守的な歌人だと思っています。

 最近は短歌をより広めるために、お笑い芸人として芸人事務所に所属し、漫才などに短歌を取り入れる試みも始めました。今後はおしゃべり的な口語も積極的につかっていくことになるかもしれませんが、現時点ではまだまだです。

 ちょっと久しぶりに文章を書きます。と言いつつもこの文章が、いわゆる文章になるかどうか、まったく自信がありません。

 有料のメールマガジンを毎日配信しています。ツイッター(チャットとブログを足したようなもの)にも毎日たくさん言葉を書いています。  

 が、私はネットに置かれた言葉は「おしゃべりと文章のあいだくらいのもの」と捉えているのです。仕事で書く文章とは別物と考えないと、つらい。

 もっとも有料メールマガジンは、お金を払っている読者に向けて発行しているわけですから「仕事」ではあるのですが。電子メールで毎日届けられる、なかば私信のようなメディアには、「おしゃべりと文章のあいだくらいのもの」「中身も豪華なごちそうというより、まかない飯のようなもの」が載っているのがちょうどいいのではないかと考え、こつこつと続けています。

 以下は、私の公式ブログに、長いあいだ掲げてある宣言文です(冒頭の一文は短歌)。 

黒板に書く字は白い そのようにわたしの色を決めてきたんだ (枡野浩一)
 ネットの言葉は「文章」と「おしゃべり」の間くらいに位置するものだと思う。そう考えなければゆるせないくらいミスが多い。匿名の無責任な発言も目立つ。(私の短歌は無数に転載・引用されているが、そのほとんどに表記ミスがある。枡野浩一という名前も「桝野」「幸一」とか、かなりの確率で誤記されている。枡野浩一ではない歌人の短歌が枡野浩一の短歌として語られていることも多い。そんなミスは黙殺するのが「普通の態度」であるという空気がネットにはある。プロの書き手がそんなミスをしたら黙殺されないであろう、その非対称性……)
 ネットの言葉を、活字の言葉と同等に扱うと、その長所も短所も見逃すと思う。出版社のフィルターを通ってない。修正も消去もたやすい。十年たっても残る。時と共に紙が黄ばんだり印刷が薄れたりしないから、時の流れが体感しにくい。いつでも聴けるポッドキャスト番組が苦手なのは聴き逃すことができないから。ネットの文章が退屈なのは「つっこまれないこと」を目標にして書かれるから。
 私のブログは時々予告なく古い記事を消します。随時、加筆修正していきます。(原稿料や印税など対価をもらって書くという自分の本業を優先させています。アフィリエイトも試みていますが成果が出なければいつでもやめるつもりです)
 残らないおしゃべりに責任を負うのと同様、消えた文にも責任を負うでしょう。書いたものを消すという行為も表現であり、それをなかったことにはしません。名を出して書くということは、言動の積み重ねを背負っていくということです。その場その場でちがうことを言えてリセットが簡単な「匿名」を支持しません。》

 多分に「怒り」のこめられた文章であり、ちょっと飛躍が多いから詩みたいになってしまっています。ここにこめられた気持ちを、もう少し噛み砕いてお話ししていきましょうか。

 一、ネットの言葉はまちがいだらけ!

 知らないだれかの日記に自分の短歌が、ことわざのように引用されることが、かつての夢でした。その夢はもう叶っています。

 ネットでは毎日のように私の短歌が「引用」され、語られています。が、そのほとんどに誤記がある。勝手に句読点が足されたりしているというのはマシなケースです。だいたい同じ意味ではあるけれど、まったく七五調になっていない「短歌」が、枡野浩一の作品として紹介されている場合もよくあります。

 最初のころは、その誤記ひとつひとつの作り手に「ちがいますよ」とメッセージしていたのですが(インターネットで枡野浩一のことを書いていて、私から直接メッセージをもらったことのある人は膨大な数になると思います)、今はもうあきらめてしまっています。きりがないからです。

 現在の私は「万葉集は100%まちがっている」という説を唱えています。枡野浩一ごときの短歌でも毎日これだけまちがえられているのですから、古典はどれだけ適当に、恣意的に、手が加えられていることでしょう。もはや作者が書いた原文どおりの古典短歌など、一首も存在しないにちがいないと確信しております。

 そういえば人気お笑い芸人に「バカリズム」という名の男性がいるのですが、彼の本名は升野英知さんといいます。私は枡野浩一です。

 ネットとサーチエンジンで検索をしていて、「枡野さん可愛い」「枡野さん結婚したい」「枡野さん天才」と書かれていたら、それはほぼ100%バカリズムの升野さんのことを書こうとしてまちがえた結果です。みなさん、結婚したいほど可愛いと思っている天才の名前を、正確に覚えないんですね。一方、「枡野キモイ」「だから離婚されるんだよ枡野」とか書かれていたら、それは100%まちがいなく、枡野浩一について書かれた正しい悪口です。

 いわゆる匿名巨大掲示板では、誤記を誤記と知っていてわざとそのままつかう、ということが普通に行なわれています。たとえば「既出」と書くべきところで「ガイシュツ」と書いたりとか。だれかが「キシュツ」を「ガイシュツ」とまちがえたことがあり、それが面白いということで定着してしまったそうです。

 大昔にトレーナーをわざと裏返して着るのが流行したことがあり、大人が「裏返しですよ」と指摘すると、若者に「わざとです」と笑われてしまうといった光景が見受けられました。そのことをほうふつとさせる現象ですよね。

 二、まちがいだらけの言葉が消えない!

 そんなまちがいだらけの言葉は、いつまでも消えません。書いた本人が消したくても、どこかに複写されたものが残ってしまう仕組みになっていて、それらをすべて修正することはもう不可能です。過去に発せられた言葉は消えることなく蓄積される一方だから、新しいダジャレを思いついたと思って検索してみると、絶対すでに思いついて書いている人がいます。絶対、です。人間の創造力の限界が見えます。

 三、言葉を発した人の顔が見えない!

 日本語はそもそも一人称がなくても意味が通じるように書くのがよい、とされてきました。私が専門とする「短歌」は、「一人称の文学」と呼ばれています。あえて一人称をいれなくても、短歌に書かれていることはすべて詠み手である「私」の見たこと感じたことである、という暗黙の了解をふまえて解釈されます。

 広告文でも、新聞記事でも、一人称なしで自然に読めるよう仕上げると、優れた仕事と見なされます。「私が」「俺が」などと書くのは野暮な子供の作文である、と。

 そんな「和をもって尊しとする」日本人がインターネットに言葉を書くとき、「匿名」という立場を利用しようとするのは、まあ当然だったのかもしれません。

 ネットではない現実世界においては、あらゆる言葉は「だれが言ったか」によって受けとめられ方が左右されます。立場が強い人の言葉は、どんなに説得力がなくても「正しい」とされてしまいます。そのことへの反発からか、ネットでは常に、「正しい言葉はだれが言ったかどうかとは関係なく正しいはずだ」という、夢をみようとする人がとても多いようです。

 しかし私は、それはやはり、「夢」だと思います。その言葉を発する人から完全に自立して、言葉それだけで正しい言葉などというものが、この世に存在するでしょうか。「暴力反対」とインターネットで主張する人が、実際には暴力の加害者であるとしたら、その言葉の説得力はゼロになります。

 そういえばネットには「ネカマ」といって、男性があえて女性のふりをすることによって、女性を求めて必死になる男性たちと交流するあそび(?)があるようです。何のためにそんなことをするのかの動機は色々でしょうが、語り手が男性であるか女性であるかによっても、言葉のニュアンスは大きく変化します。どんな人生を背負った言葉なのかが、現実世界では常に問われているのに、ネットではそのへんが曖昧になっていきます。

 乱暴にまとめると、ネットに書かれたあらゆる言葉は、「とりあえずの言葉」であり、「うそっこの言葉」です。国家が発行する紙幣のようにも見えるけれども、よく見ると透かしが入っていない感じ。もちろん突き詰めて考えれば紙に書かれた言葉だって同様だし、紙幣だって単なる印刷物なのですが。程度問題として、「偽札」寄りなのです。

 たとえばツイッターでは、ほかの人が書いた文章をまるごとコピーして、あたかも自分が書いた文章であるかのように発表してしまうことを「パクツイ」と呼びます(パクリ・ツイートの略)。ためしに、「前世は名のある歌人」という言葉をサーチエンジンにいれてみてください。あなたの目の前には、膨大な量の「パクツイ」があらわれるでしょう。細部を微妙に改変されながら、コピーがまたコピーされ、もはや原作者がだれだったのかもわからない万葉集の短歌のような言葉が今、毎分ごとに生産されつづけています。

 それこそが結局のところ私たちの信じてきた「日本語」なのだから、昔も今も同じようなものだと、おおらかに考えることができればよいのでしょうか。

 私の唯一の弟子である歌人の佐々木あららは、「星野しずる」という架空の歌人を「創った」ことで知られています。星野しずるは、きらきらした詩的な言葉の短歌を、一瞬にして自動生成できるバーチャル歌人。だれでもワンプッシュで、「彼女」に新しい短歌を詠ませることができてしまいます。

 ここから新しい日本語が始まるのか、それとも終わってしまうのかは私ごときにはわかりませんが、こんな短歌を詠んだのが実在の人間ではない単なる「システム」であるという事実には素直に驚いてしまうし、ちょっと笑ってしまいますよね。

 Googleへ逃げ込む老いた残像に恋をしている鬱病の母  (星野しずる) 


※写真はイメージです。

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