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「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉 【『「がっかり」は希望まみれ』短歌と文=枡野浩一】(無料公開中)


「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉


 この短歌の生まれた背景を、お伝えします。
 高校生のとき、私は文芸部の部長でした。
 文芸部は人気がなく、私が入部したとき三年生は受験で引退間近。二年生が一人もいないという理由で、すぐに部長になってしまいました。一年生も数名。一人でペンネームをたくさん作って、文芸部で発行していた小冊子の半分以上が自分の書いた作品でした。印刷や製本もほとんど全部一人でやりました。
 そうこうしているうちに、私の活動に興味を持ってくれた人が一人、また一人と部員になってくれました。が、皮肉にも新しく入った部員と部活に関する考えが合わなくて、部長なのに退部することになってしまいました。
 ある日、放課後の教室でクラスメイトのKくんに話しかけられました。Kくんは勉強も運動もでき、バンド活動もやっている、クラスの中心にいる人気者です。その正反対のポジションの私は、彼とはめったに話しません。
「枡野くん、文芸部やめたの?」
「うん」
「……がっかりだな。こんなこと言ったら悪いけど、枡野くんから文芸部をとったら、何も残らないじゃん」
 その言葉に私がショックを受けたか。というと、そうではなく、大変嬉しかったのです。
 まず自分自身が「自分から文芸部をとったら何も残らない」と心底思っていたので、そのことを言い当たられたことの嬉しさでした。
 もうひとつは、私が文芸部の活動に打ち込んでいたことを、Kくんのような人がずっと見ていてくれたんだ、という嬉しさでした。運動も勉強もできるKくんには馬鹿にされているだろうと思っていたし、私はKくんのことをまぶしく見ていたけれども、向こうに見られているとは思ってもみなかったのです。
 のちに私は音楽雑誌でライターを始めます。そのとき書いた記事をKくんに郵送しました。それからだいぶ経って、歌人として本を出したりテレビに出たりするようになったあと、インターネットを通じてKくんから連絡があり、ものすごく久々に二人きりで飲みました。
 その再会がきっかけのひとつとなり、私は高校時代の同期生たちとインターネットで連絡をとりあって、自分の高校時代の経験をとりいれた青春小説『僕は運動おんち』(集英社文庫)を書きました。物語はフィクッションですが、運動ができないエピソードは実話です。「もしかしたらあったかもしれない、もうひとつの高校時代」を書いてみました。
 実際の高校時代よりも、小説の中の高校時代のほうが明るい。そう描けたのは大人の時間を生きている私が振り返ったとき、暗かった高校時代を肯定していることのあらわれでしょう。

 がっかり、という言葉を肯定的にとらえたくなったのは、その経験があったからです。
 でも冒頭の短歌は、高校時代につくったものではありません。大人になって、インターネットの中で私自身について語られる文章の中に「がっかり」という言葉を見つけることが多くなって、その蓄積の中でうまれた一首。
 インターネットは、本来なら知り合わなかったような他者との接点が、事故のように日々うまれていく場所です。私はエゴサーチ(自分の名前を検索エンジンにいれて検索をかけること)を日課にしているので、そういうことをしていない方にくらべたら、私について言及している方と出会う機会が多いはずです。
 実生活に影響を与える良い出会いもありましたし、そうではない出会いもありました。
 もうインターネットを始めてから十六年くらい経つので、最初のころにくらべたら、インターネットとの距離の置き方もつかんでいて、最近はトラブルにあうことは減りました。
 インターネットを始める前には考えなかったことで、今は明らかな真理のひとつであると肝に銘じていることがあります。それは、「あらゆる言葉は一人と一人の関係性の中に置かれている」という、当たり前のことです。
 たとえば、「がっかり」という言葉が希望まみれの言葉であると私が実感できたのは、遠い日のKくんとの記憶があったからでした。それを短歌にする過程において、言葉を普遍化していくから、もしかしたらこれは不特定多数の人にも「理解」される短歌になっているのかもしれません。それでもこの短歌は顔の見えない人々に向けて漠然と詠まれたものではなくて、Kくんと私のあいだにうまれた言葉であり、そのKくんと私のあいだにうまれた言葉を第三者に通じるようにするにはどうしたらいいかと考えて仕上げた作品です。
 もしもKくんではない、初めて会った人に「がっかり」と言われたとしたら、「こっちこそ、そんなあなたには、がっかりですよ」などと切り返したくなってしまうでしょう。
 言葉の作品をつくっていると、つい、そういう構造をわすれてしまいそうになります。まるでその言葉が、この手あかまみれの現実とは関係ないところで、普遍的な輝きをはなっているかのように、錯覚してしまうのです。
 私は短歌塾のようなことをやるときにいつも、「顔に似合わない短歌をつくるのはやめましょう」と言うようにしています。作品と作者は別物だというご意見も当然あるでしょうが、少なくとも短歌というジャンルにおいては、作者のわからない作品をわざわざ「詠み人知らず」と名づけたりするくらい、作者がだれであるかが常に重視されているのです。
 星野しずるという架空の有名歌人がインターネットにいます。プログラムによって自動的に短歌を生成する「彼女」には、むろん、そのプログラムをつくった真の作者が存在します。大量に自動生成される短歌の中から、読者が良いと感じた一首を選び、書き残していく行為があるから、彼女の作品は面白い。
 すべての言葉に貼り付いている、一人一人の生身の人間の、顔を見たいと切望すること。それは実際には叶わない望みかもしれません。それでも、国家が発行する紙幣のように流通している言葉の本質は、そこにあるのだということを常におぼえていたいと私は思います。

 最後に、前出のKくんの、生身の発言に触発されて私が読んだ一首を挙げておきますね。


 ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいに よい人生を


※初出=2015年「PHPスペシャル4月号」。短歌はいずれも短歌集『歌』(雷鳥社)より。この記事はこれで全文で、以下に何もありませんが、「200円」で購入することで著者への投げ銭になります。

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