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現実のわからなさを愛する豊かさ 【山内ケンジ監督『ミツコ感覚』パンフレットに寄せて】文=枡野浩一(歌人)

 始まり方が面白い。終わり方が面白い。途中が面白い。最初から最後まで、ずーっと緊張感の途切れない、とても面白い映画だった。

 歌人は寺山修司の時代から演劇好きと決まっているのか、演劇ばかり観てしまう。映画よりも、圧倒的に演劇を観ている。演劇の面白さって何なんだろう。寺山修司が好きだった犯罪、「覗き」に通じるものなんだろうか。

 山内ケンジ監督のつくる舞台は、まだ観たことがない【※】。けれどプロフィールを知らなくても、「この映画、演劇みたいに面白い」と感じたはずだ。その演劇的魅力の正体はわからない。「演劇をやっている人が映画を撮っても演劇のようにはならない」という例を、いくつも知っているから、凄いことだと思う。

 登場人物全員が、どことなく信頼できない空気を漂わせている。いわゆるイケメンが一人も登場しない。ヒロインとその姉はきれいだけど、なんだか嘘をついているようにも見えるし、あやしい男たちの話をつい聞いてあげたりする優しさもあり、あぶなっかしい。

 超有名人ではない、ニューフェイスが登場しても、「この人たち、知ってる」と思った。男前ではないのにモテる、あの男を知ってる。そんな男と交際してしまう美女も、知ってる。

 それは、「あるあるネタで作品が満たされている」というのとは、ちがう。たしかに本作の核になっている親子問題や、不倫のありさまは、けっこう普遍的で、既視感がある。あるある、知ってる、と思う。しかし、彼らの次なる行動に関する漠然とした予想は、ひとつ残らず裏切られてしまった。かといって、観る者の予想を裏切ることを目的として筋運びが考えられているのとも、ちがう気がする。

 いるいる。こういう人、いる。そんな「こういう人」が、なにげなく突飛な行動をとる姿。それを初めて見るのに「本当のことだ」と感じられる不思議さ。それを演劇では味わってきたと思う。映画で味わえるとは期待してなかった。しかも映画で味わったそれは、演劇でも味わったことのない、新しい何かになっていた。新鮮な驚き。登場人物全員のことを最後には大好きになっていたのも、驚き。

 たとえば、ある男女の関係の真相は、最後まで明らかにされない。観ている私たちに明らかにされないだけではなく、登場人物たちにとっても、そこは最後まで明らかにされない、現実の謎なのだ。そういう「現実のわからなさを愛する豊かさ」に思いをはせつつ、映画『ミツコ感覚』を覗く行為を堪能した。


【※2011年執筆当時。その後、山内ケンジ率いる「城山羊の会」の舞台は毎回欠かさず観ています。】

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